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サン・ジャック通りとサン・マルタン通りを結ぶシテ通り(古代のパリ南北軸) がセーヌ右派流を渡河するノートルダム橋 Pont Notre-Dame の街燈。手前がシテ島。
オスマンによるパリ改造で改築された石造りの5連アーチ (1853) の内残された両サイドの石造りアーチの部分で、現橋は3連アーチ (1912) 。街燈も当時のものかと思われる。
![réverbère / Pont Notre-Dame](https://galeriey2.wordpress.com/wp-content/uploads/2015/08/7121.jpg?w=636)
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<偉大な探検家の公園 Jardin des grands explorateurs
: Marco Polo et Cavelier de La Salle (1867) >の街燈。街頭の背後はマロニエの並木。
リュクサンブール公園側から天文台大通り、
突き当りのパリ天文台 Observatoire de Paris を見ている。
カブリエ・ド・ラ・サール René-Robert Cavelier de La Salle (1643-87) は5大湖からミシシッピー川流域を調査した探検家で、ミシシッピー流域をルイ14世王の土地を意味するルイジアナ Louisiane と命名した人物。
ミシシッピー中流の町、サン・ルイ(ルイ9世) を意味するセントルイスもそうだ。
複数の彫像と円柱 (列) が置かれているが、手前のそれはオペラ・ガルニエの屋上にある一対の金色の彫像、「ハーモニーとポエジー」の彫刻家 Charles Gumery (1827-81) の作品で<夜 La Nuit>。足元に首輪を付けた犬がいて左手で紐先を掴んでいる。
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セーヌ右派流に架かるアルコル橋 Pont d’Arcole から下流に架かるノートル・ダム橋 Pont Notre-Dame とシテ島 Île de la Cité を見た写真。2012.08.16.
正面がドームのある商事裁判所で、その奥 (下流) が時計の塔 Tour de l’Horloge のある元シテ宮:現コンシェルジュリーとサント・シャペルの尖塔。
左端にオテル·デュー·ド·パリ Hôtel-Dieu de Paris 。
商事裁判所の宮殿 Palais du tribunal de commerce はオスマン計画の一環として、ナポレオン3世肝いりでニコラ·バイイ Antoine-Nicolas Bailly (1810-92) に建築させたもの (1860-65) 。イタリア北部のブレシアの町役場を参考にするよう命じ、その出来栄えを絶賛したという。
見え難いが、ドームの窓の上にナポレオン3世の N とパリの市章がある。
正面はセーヌ川に面す。
余談だが、ノートル・ダム橋の旧橋部分 (1853) に見える街燈は独特。
ノートル・ダム橋の右 (北) はサン・マルタン通り、左はプチ・ポン (橋) からサン・ジャック通り、ローマ時代からのパリの南北軸、カルド Cardo Maximus だ。
橋も最古でグラン・ポンと呼ばれていた。
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ガルニエ宮/オペラ・ガルニエ/オペラ座の庭に置かれた、
オペラ座 (1861-74) の建築家<シャルル・ガルニエの顕彰碑>に見られるパリ市章。
オペラ座は第2帝政下 (1850-70) でのオスマンによるパリ改造計画の目玉の一つだが、その完成を見ることなくナポレオン3世は普仏戦争に敗れて退位、オスマンも職を辞した (1870) 。
サミットに「シャルル・ガルニエの胸像 Buste de Charles Garnier 」 が置かれ、中央に「パリ市章」、ボトムには「オペラ座の設計図」が示されている。
カポー Jean-Baptiste Carpeaux (1827-75) によるこの胸像のオリジナル (1868-69) は
<オルセー美術館 Musée d’Orsay>にある。
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シャン・ゼリゼ大通りの <Peugeot Avenue> ブランドルームから見たシャン・ゼリゼ大通り Avenue des Champs Elysées。右: 凱旋門、左: コンコルド広場。
左端にフーケ Fouquet’s。ジョルジュ・サンク大通り Avenue George V を挟んで右にルイヴィトン LOUIS VUITTON 本店。
プジョーのショップではミニチュア、ペッパー・ミル等も売っている。
電飾が下から上へ・・・新ヴァージョン。
時差8時間、6日の夕方17時、点灯直後薄暮のシャン・ゼリゼです。
Charlie Hebdo
3262
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メトロ 4号線、10号線 Odéon 下車、サン・ジェルマン大通りをデ・プレの方に歩いて右 (北) に入った コメルス・サン=タンドレ広場 Cours du Commerce Saint-André の街燈。
奥のアーチの向こうに見えるのがサン=タンドレ・デ・ザール通りで、
それを渡った所の3角ブロックに <フィリップ・オーギュストの城壁 (1200-15) >のビュシ Buci 門が17世紀中頃まで存在した。
写真の左手に城壁があり、そのまた左に濠があってトゥルネール (橋) 付近から引き入れたセーヌ川の水が芸術橋付近まで流れていた。
デ・プレ教会はビュシ門前の橋を渡った位置でパリ郊外だった。
Cours の名はこの辺りが城壁と建物で囲まれた広場 (中庭) になっていた名残と思われる。
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ブーローニュの森のロータリーの一つ、マドリード門 Porte de Madrid は右にマイヨ―門に向かうマハティール・ガンジー大通り、手前のマルガリータ女王道路等6本の道路が集まる円形ロータリー。
古くはここに、フランソワ1世が建てた (1528着工) フランスルネサンス様式のマドリード城 Château de Madrid (もしくはブーローニュ城 Château de Boulogne) が在った (1552アンリ2世竣工) 。
フローレンスのルネサンス建築家 Girolamo della Robbia (1488-1566) 、フランスルネサンス建築のデローム Philibert Delorme (1510-70) 等が建築に携わった。フランス革命により破壊された (1792) 。
マドリードの王宮の場所に当時あった「ロイヤル・アルカサル」をモデルにしたので、マドリード城の名が付けられた。マドリード門はブーローニュの森への入り口の一つだ。2011.08.03.
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アレクサンドル3世橋からアルマ橋までの左岸河川敷に設けられた遊歩道、ハビブ・ブルギバ遊歩道 Esplanade Habib-Bourguiba の街燈。
オルセー河岸道路 Quai d’Orsay を右側に上げた跡地を遊歩道にしたもの(2004)。
Habib Bourguiba (1903-2000)はチュニジア共和国の初代大統領 (1957-87) 。
アルマ橋を越えてブランリー河岸道路 Quai Branly を行くと、アフリカ・オセアニア・アジア・南北アメリカに特化した<ケ・ブランリ美術館 Musée du quai Branly (2006) >がある。
右岸には国旗のたなびくグラン・パレと河岸にバトウ・ムッシュのアルマ乗船場が見えている。遊歩道に接する柱のある島は浮桟橋構造になっていて円柱に沿ってセーヌ川の水位に順応する。ニキ・ド・サンファル浮き公園 Jardin flottant Niki de Saint Phalle だ。
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6本の道路が集まる円形ロータリー Place de l’Abbé Georges Hénocque のモニュメントは同名の児童公園だ。13区の神父であり第2次大戦のレジスタンスだった Georges Hénocque (1870-1959) の名が付く前はポプラ広場 Place des Peupliers と呼ばれていた。
今はポプラではなく、プラタナスに置き換えられたように見える。
左右に横切るポプラ通り Rue des Peupliers の左方向に進めば潜る ティエールの城壁の名残<ポプラ門 Poterne des Peupliers>の付近でポプラ並木を見ることができる。
ブルボンの香り漂う<ヴァンドーム広場>の4隅を飾る街燈です。
ブルボンの LL (筆記体) の上にフルール・ド・リス (ユリの花) の王冠、
右にフルール・ド・リスを乗せた杓、左にフランスの国鳥の雄鶏があしらわれています。
下は豊穣の小麦の束でしょうか?アカンサスも多数見えます。
ヴァンドーム広場は元々、アンリ4世とその愛妾ガブリエル・デストレとの子で、
認知されてブルボン・ヴァンドーム公となった (1598) セザール・ド・ブルボン (1594-1665) の屋敷のあったところです。
フランス革命で破壊される前は
広場中央にルイ14世の騎馬像 (ジラルドン作1699) が置かれていました。
14番地の Hôtel de La Fare 、19番地の Hôtel d’Évreux[modifier の破風には
フランス王の紋章もあります。
その頃から広場に面す建物 Hôtel が順次整備されてゆきましたが、所有者は転々、
1720年以降ブルボン・コンデ一族 (シャトルー一族) が買収を始め、今ではその殆どを所有しているようです。
ポンパドール侯爵夫人の前のルイ15世の愛妾はシャトルー公爵夫人でした。
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モンパルナスの劇場、ナイトクラブ、レストラン等の集中する ゲテ通り Rue de la Gaîté の街燈。<陽気通り>の名が付く、モンパルナス駅とモンパルナス墓地の間に位置する繁華街だ。
右に劇場の一つ Théâtre Montparnasse が、左奥に Théâtre Rive gauche の看板が見える。見えないが、その前に La Comédie italienne がある。また、手前の右側に 陽気 (ゲイエティ) 劇場 / モンパルナス Théâtre de la Gaîté-Montparnasse 、等の劇場がある。
パリに入る通行税を逃れるために、バリアの外だったこの付近に飲み屋が集まってきたのが賑いの始まりだったようだ。
ダンフェール・ロシュロー広場には当時の税の徴収所が残っている。
フランスの女優 ヴァレリー・ルメルシエ Valérie Lemercier がモンパルナス劇場に出演しているらしい。
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3区と10区の境界、サン・マルタン大通りの街燈。サンマルタン門から、その向こうに見える一際高い門、サン・ドニ門まではサンドニ大通りと名を変える。
ロメオとジュリエットを上演しているらしい<サン・マルタン門劇場 Théâtre de la Porte St-Martin>の左は<ルネサンス劇場 Théâtre de la Renaissance>。
サン・マルタン門劇場 は王立音楽院として造られたが (1781) 、革命により接収され劇場となった。新古典主義の建築家 ニコラ・レノア (1726-1810) の作品。
ルネサンス劇場は シャルル・デ・ランド Charles de Lalande (1833-87) の作品 (1873) 。
サン・マルタン門はルイ14世の凱旋門であるが、サン・マルタン、サン・ドニ大通りはルイ14世がその撤去を命ずるまで<シャルル5世の城壁 (1356-83 に築造) >のあった所で、写真の左側 (現3区) が当時のパリ市内だった。
サン・マルタン門はピエール・ブレット Pierre Bullet (1639-1716) によるルイ14世様式と呼ばれる古典主義の建築 (1674) 。
Gare de Lyon 発 St-Lazare 行き Porte St-Martin 下車。
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国立工芸院 Conservatoire des Arts et Métiers 前からサン・マルタン門 Porte St-Martin を望むサンマルタン通り Rue Saint Martin の街燈。
右が国立工芸院で、手前に<パリ工芸博物館(旧国立技術博物館 Musée National des Techniques )>が隣接している。
博物館前には<自由の女神像>が、中にはその原像が展示されている。
サン・マルタン通りはパリで最も古い通りの一つで、ローマ時代の<カルド Cardo >、南北軸の北側道路だ。
街の中心、シテ島を貫いて、南側道路はサン・ジャック通り。
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Bourse de Commerce エントランスの改装が終わった。破風にあるパリ市章も両翼の共和国のモノグラム RF も見易くなった。
左にブラッスリー Au Pied de Cochon、サントゥスタッシュ教会 St-Eustache が見えている。パリ商工会議所の裏手の大規模再開発は進行形だ。
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ヴェルサイユ門 Porte de Versailles の広場は<1989年11月9日広場 Esplanade du 9 Novembre 1989 >と呼ばれている。フランス革命後 200年目に当る。
この日、 ベルリンの壁が崩壊 Chute du Mur de Berlin した。第二次大戦後の東西冷戦の終結を象徴する歴史的な日で、ブランデンブルグ門を乗り越える市民を捉えたテレビ映像を通じて記憶に新しい。
20周年の2009年6月、ベルリンとパリ両市長立会いの下に設置された<ベルリンの壁 Mur de Berlin>は左に外れていて写っていない。
トラム Tramway T3 a と トラム T2 との乗り換え広場でもあり、見本市会場へのアクセス広場でもある。
右に見えるのがトラム T3 a の Porte de Versailles 駅。トラム T2 は左手。見本市会場は手前一帯。この日、タイタニックから引き揚げられた遺留品の展示 TITANIC L’EXPOSITION を見に行った。
2013.08.12.
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トーマス・ジェファーソン公園 Square Thomas Jefferson はアメリカ合衆国広場 / エタジュニ広場 Place des Etats Unis の一角を占める。
「1776年独立宣言の起草者
合衆国駐フランス大使 (1785-89)
合衆国大統領 (1801-09) 」
とある。
<ジェファーソンの顕彰碑>はオルセー美術館西側のアナトール・フランス河岸ソルフェリーノ人道橋 Passerelle Solférino 下流左岸詰にある。Jean Cardot’s (1930-) の作品 (2007) 。
プチ・パレのチャーチル (1998) 、クレマンソー広場のシャルル・ド・ゴール (2000) も彼の作品だ。
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2013年正月、モンテーニュ大通り Avenue Montaigne とフランソワ1世通りとの交差点からシャンゼリゼ大通りの方を見たもの。4隅にはクリスマスと新年のための電飾が置かれている。この右手がフランソワ1世広場。
マロニエの並木にも同種のイルミネーションが施されて美しい。
ヴェルサーチは改装中、隣はフェラガモ。その向こうのフェンディも改装中。
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シテ島の最下流端にある公園の名だ。
<Vert Galant>はアンリ4世の愛称、伊達男とでも訳すのだろうか。
写真はヴェール・ギャラン公園 Square du Vert Galant の中ほどからセーヌ川の上流を見て撮ったもの。左右はセーヌ川。樹は菩提樹 tilleuls。
先に見えるのがアンリ4世治世下に完成した新しい橋 (今では最も古い橋) ポン・ヌフ Pont Nuef からの降り口で、上はポン・ヌフ広場 Place du Pont Nuef になっていて、アンリ4世の騎馬像が置かれている。
騎馬像は樹に半分隠れて判別し難いが、広場の街燈とは異なる公園の街燈も見え難い。(クリックで拡大)
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2月革命により7月王政が終焉し、第二共和政府になって初めてのコンクールでの受賞作品<共和国 La République (1848)>。
1879年に国からパリ市に譲渡され、1880年に建立された。
フランス革命後の1792年に行われた<共和国宣言>から200周年を記念して、1992年にシラク市長によりリニューアルされた。
共和国を寓意した女神像で、左手に持っているのはリクルトのファスケス (束稈) で、<正義の力>を寓意しているのだが、王政時の斧は付いてなく (下の写真) 、また、王冠の代わりに<永続>を寓意するオークの冠を着けている。衣装の3角形は<知性> agilité を表す。Jean-François Soitoux (1816 – 92) の作品。
レピュブリック広場、ナシオン広場のそれらと共に<共和国のアレゴリー Allégorie de la République >の一つだ。
背後は国立美術学校/ボザール (上) 。ドームはフランス学士院 Institut de France (下) 。学士院に沿って右に入ると古い町並のマザリーヌ通り Rue Mazarine 。パリに長いお友達の家がある。
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長方形のヴォ―ジュ広場 Place des Vosges を取り囲む鉄柵。<王の館>を潜り抜けた正門の左側の門扉と鉄柵。一つ置きに懸垂型の街燈が取り付けられている。
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レアールからパリ商品取引所にかけての一帯は現在大規模な再開発中であり、この街燈も見れなくなるのかもしれない。(2012.0225. 撮影) 。
円形の商品取引所 Bourse du Commerce の左に見える塔は< Colonne Médicis (1574) >と呼ばれる。カトリーヌ・ド・メディシス Catherine de Médicis (1519-89) が建てて居住した Hôtel de Soissons (王妃の館 l’ hôtel de la reine / 1575 竣工、 1748 破壊) 唯一の名残りだ。
夫のアンリ2世 (1519-59) はノストラダムス (1503-66) の最大の讃美者であったといわれるが、彼の予言があった後に亡くなった。コロンは占星術に興味を持っていた彼女のアンリ2世への贈り物であったと信じられている。コロンの内部は螺旋階段、サミットにはガラスの屋根があって、占星術を行なえるようになっていたという。
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クルチザンヌのパイヴァ侯爵夫人がシャンゼリゼの新居に引っ越す前まで住んでいた家で、歴史建造物 Histoire de Paris になっている。
円形のロータリー、サン・ジョルジュ広場に面していて、鉄柵で囲まれた前庭を持つネオ・ルネサンス様式 Style néo-Renaissance の建築 (1840) 。
エドゥアール・ルノー Edouard Renaud (1808-86) 作。
その前の街燈で、リシャール・レノア大通り Bd.Richard Lenoir のそれと同タイプだ。
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凱旋門からフォッシュ大通り Avenue Foch を下って行くと右側に大きな記念碑 <Le monument à Jean-Charles Alphand >がある。
オスマン知事の下で具体にパリの改造を推進したエンジニア、ジャン=シャルル·アルファン Jean-Charles Alphand (1817-91) を顕彰した碑 だ。
ナシオン広場のモニュメント、共和国の勝利 Le Triomphe de la République (1899) の作者、
ジュール・ダルー Jules Dalou (1838-1902) による彫刻 (1899)。街燈はその前にある。
写真の右方向が凱旋門。鉄柵で囲まれた前庭を持つ高級住宅が連担する。
リュクサンブール公園からパリ天文台までの天文台大通り Avenue de l’Observatoire 、
サン・マルタン運河上のリシャール・レノア大通り Boulevard Richard-Lenoir、
モンソー公園、モンスリー公園、ビュット・ショーモン公園、
ブーローニュの森、ヴァンセンヌの森などを手掛けた。
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オリンピック 2020 東京開催が決まった。
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旧証券取引所 Bourse はアレクサンドル・ブロンニャール Alexandre Brongniart (1739-1813) がナポレオン1世の命を受けて建築した (1807) 。
コリント式 / パンテオン神殿のギリシャ様式の建築。
ナポレオンとフランスの栄光とともに取引が活発化し、その対応として商法の改正や証券取引所の建設などがおこなわれた (1807) 。
商事裁判所 は1865年にシテ島 Tribunal de Commerce に移されるまでここにあった。
正面左の坐像は<領事の正義 Justice Consulaire >という フランシス・デュレ Francisque Duret (1804-65) の作品 (1852) 。商法に右肘をつき、左手には畳まれた天秤を持っている。
両替でお勧めの<メルソン Melson >は手前のヴィヴィエンヌ通り Rue Vivienne 左へ直ぐ。
メトロ 3号線 ブルス Bourse 下車。