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![Femme se frisant / Henri de Toulouse-Lautrec / Musée des Augustins / Toulouse](https://galeriey2.wordpress.com/wp-content/uploads/2015/08/320.jpg?w=400&h=534)
トゥールーズ Toulouse にあるオーギュスタン美術館 Musée des Augustins で、ロートレック Henri de Toulouse-Lautrec (1864-1901) の<巻き髪をする女性 Femme se frisant (1891)>を見れる。
カールする女等と紹介されるこの絵は「厚紙に描いた油絵」で、父親であるトゥールーズ・ロートレック伯爵アルフォンスが寄贈した (1904)もの。
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トゥールーズ Toulouse にあるオーギュスタン美術館 Musée des Augustins で、ロートレック Henri de Toulouse-Lautrec (1864-1901) の<束の間の征服 Conquête de passage (1896)>等を鑑賞した。別名<コルセットを着ける女>の方が分かりやすい。
キャンバスに張った Marouflé の紙に黒チョークとオイルで描いたチョーク画。
トゥールーズ・ロートレック伯爵アルフォンスが寄贈した(1904)もの。
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要塞として建てられた (13世紀) サント・セシル大聖堂 の司教の宮殿 Palais de la Berbie からのタルン川の風景。ガロンヌ川の右支流タルン川 (左が下流) 。
Pont-Vieux の上流に斜め堰があり、位置のエネルギーを利用して、(右岸沿いの水路を通って) 橋右岸下流に接続した建物内で粉引き等をしてから川に戻していた。
バルコニーの下に見えているのが司教の庭園 Jardin du Palais で、宮殿外の崖河岸も緑地・遊歩道になっている。マドレーヌ教会 Église de la Madeleine もみえる。
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宮殿に収容されている美術館内部は赤レンガ造りのアーチ群で修復されている (2012) 。
前回訪れたとき (2000) の面影が探せない。
タルン川 Le Tarn を臨むバルコニー手前の近代的展示室。
奥に2点、Reine de Joie (1892) 、右に2点、La revue blanche (1895) の
ポスターと習作が並べて展示されている。
La revue blanche の習作のタデウシュナタンソン Thadée Natanson 夫人の顔が気に入った。
ギャラリー・イグレックではこれらのリトグラフを所蔵している。
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アドリアン・デュブーシェ (1818-81) のコレクションと買い付けにより11,000点を超える世界の磁器を所蔵する<アドリアン・デュブーシェ国立磁器博物館 Musée national de la porcelaine Adrien-Dubouché (1845)>の正面中央。折衷主義の建築様式だ (1900) 。
併設されていた装飾美術学校 (1868-2011) の名残が門扉の Ecole Musee に窺える。入り口は右側奥に改装されていて、展示品は全てガラスケースに収納されている。
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エリゼ宮前、内務省横にあるギャルリー・プレジダンス Galerie de la Présidence 。
ビュッフェ Bernard Buffet (1928-99) 若かりし頃の作品<La table de cuisine (1950) >
キャンヴァスに油彩。
4年前には盗んだお祖母さんのシーツをキャンヴァス代わりに描いていたが、その2年後 (1948) には批評家賞を得て支援者にも恵まれた。
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キュビスムの版画家 graveur cubiste の草分け、ジャック・ヴィヨン Jacques Villon (1875-1963) はデュシャン兄弟の長兄ガストン Gaston Duchamp のペンネーム (1894以降) 。
<成功もしくはカード Une réussite ou Les Cartes (1903) >は美術学校へ行く以前の作品で、
ロートレックやドガの影響を強く受けていると言われる。
その後、モンマルトルからパリ郊外のピュトーに転居 (1906) 、洗濯船のピカソ、ブラックと一線を画して黄金分割 Section d’Or を自称するキュビスムのピュトー派 Puteaux Group のメンバーとなる (1910) 。
弟のマルセル・デュシャン Marcel Duchamp (1887-1968) は
ダダイスム Dadaïsme の先駆者となる。
色付きのエッチングとアクアチントによる作品で、
フランス国立図書館 Bibliothèque nationale de France の所蔵。
「フランス国立図書館」は 1368年にシャルル5世に よって創立された「王室文庫 Bibliothèque du Roi 」が起源。
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コクトーがアカデミー・フランセーズの会員になった年 (1955) に、ビュッフェ Bernard Buffet (1928-99) が献呈した肖像画 À Jean Cocteau 。
ミリィ=ラ=フォレ Milly-la-Forêt の ジャン・コクトーの家 (美術館) Maison de Jean Cocteau で観れる。
ビュッフェはコクトーの戯曲<人間の声 La Voix Humaine>を銅版画で表現したりもした (1957) 。
ビュッフェは 1974 にアカデミー・フランセーズの会員となった。
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シャガール Marc Chagall (1887-1985) が初めてパリに来て (1910) 間もなくの作品
<ロシアとロバとその他のものに À la Russie, aux ânes et aux autres (1911-12) >。
ロシア (現ベラルーシ) の故郷に思いを馳せて描いた代表作の一つ。
子供を生んだ雌牛と、乳絞りの農婦と、教会。シャガールの原風景なのだろう。
農婦の首が離れていることで彼の夢想 (幻想) であることが分かる。
原色の映えるアヴァンギャルド avant-garde な作品だ。
作者の寄贈により (1953) 国立近代美術館が所蔵。来日した(2010) 。
蜂の巣 La Ruche で製作、生活した。
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第1回印象派展 (1874) に出品して酷評に曝されたルノワールの<バレリーナ Danseuse>。
ワシントン・ナショナル・ギャラリー National Gallery of Art 所蔵。
20年ぶりにパリ (リュクサンブール美術館) でお目にかかった。
<ポール・デュラン-リュエル / 印象派の賭け マネ・モネ・ルノワール・・・>展 にて。
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リュクサンブール美術館で催された <ポール・デュラン-リュエル / 印象派の賭け マネ・モネ・ルノワール・・・>展 の目玉の一つ、
ルノワール Pierre-Augustê Renoir (1841-1919) の「ダンス3部作」。
左から<田舎のダンス Danse à la campagne (1883) >、<都会のダンス Dance à la ville (1883) >、<ブージヴァルのダンス Danse à Bougival (1882-83) >。
「ブージヴァルのダンス」がボストン美術館から里帰りして、
オルセー美術館の2点と並置された。
「田舎のダンス」の女性は<舟遊びをする人々の昼食(1881)>等にも登場する後のルノワール夫人、「都会のダンス」の女性はユトリロ Maurice Utrillo (1883-1955) の母親とされる。
衣装は木綿と絹で描き分けられている。
最初に描かれた作品「ブージヴァルのダンス Bal à Bougival」のカップルは都会のダンスと同じで、女性はユトリロの母シュザンヌ・ヴァラドン Suzanne Valadon (1865-1938) 。
印象派から古典主義への回帰を示す代表作で、リュエルの室内装飾用として描かれた。
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ルイ13世の王妃でルイ14世の生母 オーストリアのアンAnne d’Autriche (1601-66) の肖像画。
1620-25 に描かれ、多分ルイ13世の間に在ったが失われてしまったルーベンス Peter Paul Rubens (1577-1640) 作のオリジナルのコピーだと案内されている。
作者は不詳で、D’après Rubens とある。
ルーヴル美術館所蔵。
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<ルーブル美術館展>が国立新美術館で開かれています (2015.02.21.-06.01.) 。
1月にルーヴル美術館を訪れた際、在館していなかった<天文学者 (1668) >は日本に初出張していたのです。
ヨーロッパを牛耳ってきたロートシルド家 (ロスチャイルド) の所有だった作品です。
ルーヴル美術館はフェルメール Johannes Vermeer (1632-75) の作品を2点所蔵していますが、もう一点は<レースを編む女 La Dentellière (1669-71) >です。
縦・横20cm 強の小さな作品です。
家事をする女性の美徳を描いたものとされています。
国立新美術館は宇和島藩伊達家の上屋敷があった所です。
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グラン・パレ Palais Grand の裏 (西) 側、フランクリン・ルーズベルト大通りに面した 発見の宮殿 Palais de la Découverte 。
<科学博物館 Musée et Centre culturel scientifique parisien >が入っている建物だ。
「現代生活に適用される芸術と技術」をテーマにしたパリ万国博覧会 (1937) において、ジャン・ぺランによって造られた (1937) 博物館が、万博後 (1938) 拡張されて科学博物館となった。
Victor Peter (1840-1918)と Alexandre Falguière (1831-1900) による左右の騎馬像 (1900) 等は「1900 パリ万博」で建設されたグラン・パレ Grand Palais 以来のもの。
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ガリアのシンボルとして使われて以来の歴史が古い<ガリアの雄鶏 Coq gaulois>は事実上フランスの国鳥。右の Gaulois Dorée が最も近い品種だとされている。
ルーブル宮殿のクール・キャリー Cour Carrée エスト翼 Aile Est のペディメント (破風) に、円形のウロボロスに囲まれたガリアの雄鶏を見ることができる。
<ウロボロス Ouroboros>は尻尾を飲み込む蛇で、死と再生/不老不死を象徴する。
オリジナルはギョーム・クストーの息子 Guillaume II Coustou (1716-77) の作品 (1759) だが、王の紋章で飾られた地球部分をフランス革命後に置き換えたものだ。
輝く太陽の光は残っている。
王の紋章の多くがガリアの雄鶏に置き換えられたと言われるが、更に、皇帝ナポレオン1世は弱々しい雄鶏の多くを強い鷲に置き換えたという。残った希少例と思われる。
両側を有翼のゲニウス Génie がサポートしている。
バスティーユ、7月革命記念柱の<自由のゲニウス Génie de la Liberté>が有名。
パッサージュを通して見えているのはパリ1区区役所と鐘楼。
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パリ植物園にあるパリ (世界) 最古の全金属構造物、<ブュフォンの展望台 Gloriette de Buffon>。サミットに風見鶏を乗せた天球儀を置き、8本の円柱と円形格子構造がそれらを支持している。
ヴェニケ Edme Verniquet (1727-1804) による建築 (1788) で、
鋼構造のエッフェル Gustave Eiffel (1832-1923) に100年先駆けたものだ。
ブュフォン Georges-Louis Leclerc de Buffon (1707-88) は
植物園長も務めた博物学者として有名だが、いわゆる万能人物で鉄鋼所も持っていた。
材料はそこで調達された。設計も恐らく彼だろう。
植物園内で最も標高が高く、コイポーの丘 Butte Coypeau 等と呼ばれ、長らく風車が置かれてきた (1303-1640) 。丘は展望台まで迷路状になっている。
<ブュフォンの坐像>が <国立自然史博物館の進化のグランドギャラリー Grande Galerie de l’Évolution> 前に置かれている。Jean Carlus (1852-1930) の作品(1908)。
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ガルニエ宮/オペラ・ガルニエ/オペラ座の庭に置かれた、
オペラ座 (1861-74) の建築家<シャルル・ガルニエの顕彰碑>に見られるパリ市章。
オペラ座は第2帝政下 (1850-70) でのオスマンによるパリ改造計画の目玉の一つだが、その完成を見ることなくナポレオン3世は普仏戦争に敗れて退位、オスマンも職を辞した (1870) 。
サミットに「シャルル・ガルニエの胸像 Buste de Charles Garnier 」 が置かれ、中央に「パリ市章」、ボトムには「オペラ座の設計図」が示されている。
カポー Jean-Baptiste Carpeaux (1827-75) によるこの胸像のオリジナル (1868-69) は
<オルセー美術館 Musée d’Orsay>にある。
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ルイ14世がシュノンソーを訪れた時に (1650) 、
城主だった (1624から) 叔父にあたるヴァンドーム公爵 César de Bourbon-Vendôme (1594-1665) に贈る約束をしたとされるルイ14世の肖像画である。
リゴー Hyacinthe Rigaud (1659-1743) の作品で、衣装等は異なるが、肖像はルーブル美術館 (1701) ・ヴェルサイユ宮殿 (1702) のものと同じに見える。
豪華な額縁はルイ14世様式のバロック装飾意匠の創造者の一人、ルポートル Jean Lepautre (1618-82) の作品。
サミットに月桂樹で囲まれた王の紋章、<フル―ル・ド・リス Trois fleurs de lys>と<トランペットを吹くルノメ/名声 La Renommée の寓意像>を置き、ペルタ下のボトムに鷲とライオンの頭部を絡ませ、両サイドからライオンの足を覗かせている。
後者は、勇気と大胆、知識を象徴し、また、王家を象徴するとされた<グリフォン Griffon>を具現したものと思われる。
右手にフル―ル・ド・リスで飾られた杖<王・君主・王権を象徴する笏/セプター Sceptre >を持っている。
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シュノンソー城の建設はフランソワ1世の時代に始まった (1513) 。
ルイ14世の間 (1650 に滞在した。) には
城主だった叔父のヴァンドーム公に後に贈る約束をしたとされるリゴー Hyacinthe Rigaud (1659-1743) 作のルイ14世像 (写真の左に額縁) 等が飾られている。
部屋に据えられたルネサンス様式の暖炉には
<サラマンダー Salamandre とアーミンHermine >が刻まれている。
サラマンダー (サンショウウオ/火中に座って水を噴く) は
フランソワ1世のエンブレムであり、アーミン (オコジョ・シロテン/毛皮模様) はブルターニュ公国 (939-1547) のエンブレムだ。
また、暖炉左右の側面には、<フランス王国のフルール・ドリス>と<ブルターニュ公国のアーミン>が交互にあしらわれている。
フランソワ1世の妻、クロード・ド・フランス Claude de France (1499-1524) はルイ12世の娘でブルターニュ (女) 公/ブルターニュ侯爵夫人だった。
二人は又従兄妹の関係。アンリ2世の母。
ルイ12世はエンブレムにヤマアラシを使用した。
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高級娼婦/クルチザンヌ courtisane の横目で忘れられない
<ダイヤのエースを持ついかさま師 Le Tricheur à l’as de carreau ( vers 1635)>。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール Georges de La Tour (1593-1652) 作のこの作品は、
ルーブル美術館に寄贈した (1972) Paul Landly 氏が、
サン・ルイ島の古美術商から購入した(1926) ものという。
左の3人はグルのいかさま師達で、右端の金持ちそうな青年がカモ。
ワインを勧められ、クルチザンヌに気をとられている間にエースを隠し持っている左端のいかさま師に身ぐるみ剥がれてしまうというわけだ。
当時 3大誘惑とされた<賭博 le jue、飲酒 le vin、淫蕩 la luxure>を戒める道徳的意味を持つテーマとしてカラヴァッジョをはじめ多くの画家が採りあげたものの一つだが、
<ガブリエル·デストレと彼女の妹ヴィラールの公爵夫人の推定肖像>と共に
キュビストやシュールレアリストに大きな刺激を与えた絵画とされる。
参考
Portrait présumé de Gabrielle d’Estrées et de sa soeur la duchesse de Villars / Musée du Louvre
<ヴィクトル・ユゴー美術館 Muséee Victor Hugo >で見れるテーブル。
既成のテーブルにユゴーがインク壺と4名自筆のメモ板を加えてデザインしたもので、チャリティー・オークションに出した (1860) ものの買い手が付かずに手元に残ったらしい。
Victor Hugo (1802-85)、Alexandre Dumas (1802-1870) 、George Sand (1804-76) 、Alphonse de Lamartine (1790-1869) 、4名の名が貼り付けられている。
ユゴーが借りていたこのメゾンをパリ市が買い取って美術館にするために多額の寄付をした小説家、劇作家 ポール・モーリス Paul Meurice (1818-1905) の仲間・友人達だ。
* * *
今治の<(株) 魚貞蒲鉾店>の簀巻きなどをいただきました。
簀巻きはこれに限ります。
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アンリ2世の愛妾 (1538-66) で、王妃カトリーヌ・ド・メディチ Catherine de Médicis (1519-89 : 在位 1547-59) との確執で知られる、ディアーヌ・ド・ポワチエ Diane de Poitiers (1500-66) がアンリ2世から貰った (1547) シュノンソー城 Château de Chenonceau 。
モノグラムが HC なのか HD なのかで話題となるディアーヌ・ド・ポワチエだ。
フランソワ1世の財務担当 Thomas Bohier の妻 Katherine Briçonnet が設計・デザイン等を実質指揮して建設を開始 (1513-21) 、フィリベール・デローム Philibert Delorme (1510-70) がルネサンス様式で完成させた。
アンリ2世が亡くなる (1559) と、カトリーヌ・ド・メディチは直ちに Château de Chaumont との交換によってディアーヌ・ド・ポワチエから念願のシュノンソー城を取り上げる。
その後、城を買い取った (1733) クロード・デュパンの妻で 、 マダム・デュパン Madame Dupin と呼ばれたルイーズ・デュパン (1706-99) が啓蒙思想家達のサロンとして提供した舞台もシュノンソー城だ。
マダム・デュパンはジョルジュ・サンド Aurore Dupin (1804-76) の曾祖母である。
城の建つシェール川 Le cher はロワール川 La Loire の左支流で
トゥールTours の町を過ぎて合流する。
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ヴァンドーム広場の現モニュメントであるコロン Colonne は工事中だが、このナポレオンのアウステルリッツでの戦勝記念柱が置かれる前にはルイ14世の騎馬像が置かれていた (1699-1792) 。広場の名はルイ大王広場 Place Louis-le-Grand と呼ばれた。
フランソワ・ジラルドン François Girardon (1628-1715) 作の騎馬像は革命によって破壊されたが、そのミニチュア Louis XIV が<ルーブル美術館>にある。
王室政府が取得して (1784) ルーヴルのアンティケの間に保管していたものだ。
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義理チョコは<La Maison du Chocolat>と<Bvlgari / il cioccolato>でした。
Mariage で美味しく頂戴しました。有難う。
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ショパンの肖像画 Portrait de CHOPIN として有名な
ドラクロワ Eugène Delacroix (1798-1863) の作品。
ショパンとジョルジュ・サンドが蜜月だった頃 ( Vers 1838) の作品で、ピアノに向かっているショパンとその左手で編み物をするサンドを描いたもの。
サンドの部分はコペンハーゲンの Ordrupgaard Museum にあるらしいが見たことはない。
破局後もドラクロワの手元にあったが、死後切り取られて、作曲家 Antoine Marmontel (1816-1898) の息子で自身も作曲家でありコレクターでもあったアントニン・マルモンテル Antonin Marmontel (1850-1907) が買い取り、<ルーブル美術館>に寄贈した (1908) 。
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<リュクサンブール美術館 Musée du Luxembourg>で開かれている
<ポール・デュラン-リュエル / 印象派の賭け マネ・モネ・ルノワール・・・>展
に出かけました。
Paul Durand-Ruel (1831-1922) は印象派の画家たちを世に認めさせるのに貢献した画商、プロモーターとして余りにも有名です。
彼の肖像画でも著名のルノワールの保有作品数は 1500点を超えたと言われています。
モネ、ピサロ、ドガ、シスレー、マネ等の絵画として時世に認められなかった印象派の絵を丸ごと買い込み、画家個別の単独展を逐次開く等して耳目を集めることに成功しました。
7725
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シャンボール城 Château de Chambord は、ミラノ遠征後、シャトー・ド・ヴァンセンヌのドンジョンに見られる様なフランス様式にイタリア・ルネサンスの建築様式を加味して、フランソワ1世によって建設されました (1519-47) 。
その後、アンリ2世、ルイ14世が工事を継続しました。
見学の入り口になっている裏側からの写真です。中央の主塔部分と右に王の翼塔、左に礼拝堂の翼塔がありますが、手前側2基の翼塔は未完のままです。
“左右対称のようでそうではない、レオナルド・ダ・ヴィンチの設計だ” と
ガイドさんは説明していました。元設計者は後にパリ市庁舎を建築するボキャドールです。
以前とはアクセスの前庭部が変っていて、
圧巻だった正面中央からの外観は見れませんでした。
4924
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ポンピドーセンター内の<国立近代美術館 Musée National d’Arts Moderne>が所蔵する藤田嗣治 Léonard Foujita (1886-1968) の作品の一つで藤田が寄贈した (1951) もの。
戦後、日本を離れてアメリカ等に旅行した時のニューヨークでの作品、<Au café, 1949>。
藤田の白 (乳白色) 、平面的な視点、繊細な線、藤田の特徴を窺える代表作品のひとつ。
9696
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フランソワ1世 (在位1515-47) がイタリアのロッソ・フィオレンティーノ Rosso Fiorentino (1495-1540) に作らせたギャラリー Galerie Francois I (1532-39) 。
これによって、イタリア・ルネサンス美術がフランスに持ち込まれ、
フランス・ルネサンスの幕が開くことになる。
彼の善政への称賛をグレコ・ローマン (ギリシャ・ローマ) 神話と寓話を用いてフレスコ、スタッコ等で描いたものとされている。
また、クルミ材の羽目板には、モノグラムの F 、王の紋章:フルール・ド・リス3っつ、エンブレムのサンショウウオ (サマランダ) を散りばめている。
一番手前のフレスコ画は<アキレスの教育 Educazione di Achille>。
アキレウス (アキレス) に、ケンタウロス (ケンタウルス) の賢者ケイローン (カイロン) が狩猟、戦闘、水泳等の教育をしている様子。
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<プチ・パレ美術館>で見たアール・ヌーヴォー Art nouveau の家具。屏風・飾り棚にジャポニズムが反映されている。
屏風 Paravent は ウジェーヌ・グラッセ Eugène Grasset (1845-1917) の作品で、
左から四季を花で寓意している。
手前の歪んだ丸テーブル Guéridon はガレと活動を共にしたナンシー派の重鎮、ルイ・マジョレー Louis Majorelle (1859-1926) の作品で、3方に睡蓮の花をあしらっている。
右のテーブル Table はアルフォンス・ミュシャ Alphone Mucha (1860-1939) の作品 (1901) 。
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ルイ15世とマリー・レクザンスカ の結婚式は フォンテーヌブロー宮殿で行われた (1725) 。
ヴェルサイユ宮殿で見たのと同じコピーだと思うが、両サイドが少しカットされて縦長になっている。
右側には同大のルイ15世の肖像が置かれている。
ルイ15世と王妃の間ということだろう。
Marie Leczinska / Reine de France 1768 とある。1768は彼女の亡くなった年だ。
ロココを代表する肖像画家ルイ・トッケ Louis Tocqué (1696-1772) の作品 (1740) 。
ルーブル宮殿にあるオリジナルは見た覚えがない。(その後見た)
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マリー・アントワネットが使った整理ダンス/ドレッサー Commode de Beneman (1786) をフォンテーヌブロー宮殿で見た。セーブル焼の磁器、アラベスク文様で装飾されている。
マリー・アントワネットのゲームの間 Salon des Jeux de Marie-Antoinette に置かれている。
家具職人ギョーム・ベネマン Guillaume Beneman (1750-1811) が制作した新古典主義/ルイ16世様式の家具がお気に入りで、ルイ16世に買ってもらったサン・クルー城 Château de Saint-Cloud (1785) でも調度として大量に購入したという。
城の南面はセーブル Sèvres の丘に繋がっている。
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「ドラクロワが1857.12.13.から、亡くなる1863.08.13.迄住んでいた」メゾンが<ドラクロワ美術館 Musée national Eugène-Delacroix> になっている。
写真右にあるフュルステンベルグ広場からゲートとアーチを潜ってこの中庭に入る。
<天使とヤコブの戦い Lutte de Jacob avec l’ange (1861) >等サン・シュルピスの壁画・天井画の制作にはここから通った。
フュルステンベルグ枢機卿 (1629-1704) がサン・ジェルマン・デ・プレ・教会の修道院宮殿を改修した17世紀末の建物。元は宮殿の厩舎があった場所だったと聞いた覚えがある。
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ルーブル宮のセーヌ川に面するスュード翼 Aile Sud にもナポレオン1世の足跡が見られる。
ただ、破風とアーチ部分の彫像の制作年を知っていないと気付けない。
王政復古で改変されたからだ。
先ず、破風の彫刻は<歴史 (左) と科学 (右) のミューズに囲まれた皇帝章>、フェリックス・フォルタン Augustin Félix Fortin (1763-1832) の作品 (1809) 。
シールドにフル―ル・ド・リスは無いが<ルイ18世の紋章>に置き換えられている。
次に、アーチ部分にフォルタン作の<(皇帝章の甲冑に向かい合う) 二つの天才> (1809) 、
その上部に<ナポレオン1世の胸像を仰ぐ戴冠したレノメ (名声を擬人化した有翼の女神) >、デュパスキエ Antoine Léonard Dupasquier (1748-1831) の作品 (1809) 。
胸像は戦争の女神ミネルヴァの兜で置換されている。
ナポレオン1世 Napoléon Ier の在位は 1804-14 だ。
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造幣局 Monnaie de Paris の歴史は古い (864) が、
14世紀からあったポン・ヌフ右岸 (Rue de la Monnaie) からポン・ヌフ左岸のフランス学士院 (1688) 横に、Hôtel des Monnaies を建造して移転 (1776) 、現在に至っている。
硬貨/コインとメダルを生産していて、「通貨の管理 Admin des Monnaie」の表記がある。
<貨幣博物館 Musée de la Monnaie de Paris (1827) >も入っているので、
何時も人の出入りが多い。
間口 117m に及ぶ大建築物で、入口には「フランス王の紋章 (ルイ16世) 」が今も残る。
ネオ・クラシック様式の建物で、
ジャック=ドニ・アントワーヌ Jacques Denis Antoine (1733-1801) の傑作。
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ルイ14世の生母
オーストリアのアン / アンヌ・ドートリッシュ (1601-66) が建てた教会 (1647) 。
紀元前1世紀には在ったとされるパリで最も古くからの道路、<サン・ジャック通り>に面している。
ルイ13世との結婚 (1615) 後 20年以上経ってルイ14世を生んだ (1638) 。イエスへの感謝と聖母マリアへの敬意を込めてこの<ヴァル・ド・グラース教会>を建てたといわれる。
下段の破風 (ペディメント) 下に<イエスの生みの親マリア>と書かれている。
上段破風にはルイ13世王妃とルイ14世摂政の時に使用した紋章が彫り込まれている。下段破風には LA (アン・ルイのモノグラム) が見える。
バロック建築の大家 マンサール François Mansart (1598-1666) がマザランの依頼を受けて設計し (1645) 、メルシエ Jacques Lemercier (1585-1654) が仕上げた。
<軍事保険サーヴィス博物館 Musée du service de santé des armées> が敷地内にある。
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メトロ1号線 パレ・ロワイヤル – ミュゼ・ドュ・ルーヴル Palais Royal – Musée du Louvre で下車して地上に出たところ。手前はパレ・ロワイヤル広場。
リヴォリ通りに面したルーブル美術館の正門と言ってよい。
図書館の館 Pavillon de la Bibliothèque で、ナポレオン3世時代の建物。
アーチの両側に N が刻まれている。館を飾る彫像は全て1857年の作品。
アーチの奥にはミッテラン時代のピラミッドが見える。
<中世のモロッコ展>の案内幕が懸っている。
広場に<Happy Moov >が待機しているのは初めて見たが、人気なのか最近コンコルド広場で多数見かけるようになった。メトロ出入り口にアール・ヌーヴォーが。 2014.08.21.
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ルーブル宮にセーヌ川側から車やバスで入れる唯一の門< Guichets Lesdiguières >は、ナポレオン3世がルーブル宮の一部を取り壊して建設した言わば「ナポレオン3世の門」です。
リヴォリ通りからカルーゼル広場に入って、カルーゼル橋を渡って左岸に出ることができます。写真はカルーゼル橋からルーブル美術館を見たものです。
中央金色の部分はペガサスに乗ったアポロン (ギリシャ神話で芸術の神) で、
作品名<芸術の守護神 Génie des Arts (1877) >、
メルシエ Antonin Mercié (1845-1916) による浅浮き彫りです。
当初のバリー Antoine-Louis Barye (1795-1875) 作のナポレオン3世の騎馬像 (1868-70) を置き換えたものです。両サイドの川 Rivière のアレゴリー (1868) は残されています。
上の破風には皇帝章が置かれ、N の上で右向きの鷲が翼を広げています。
破風下のプレートには「皇帝ナポレオン3世」と刻まれています。
Théodore Gruyère の作 (1868) です。
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La Maison Jean Cocteau はコクトーが晩年の17年間を過した邸宅です。
2010年6月から一般に公開されています。
イル・ド・フランス、エソンヌ県のミリ=ラ=フォレ Milly-la-Forêt にあります。
ガヴァナーズハウス Maison du Gouverneur と呼ばれていた館で、
奥はボンデ城 Château de la Bonde です。
ルイ13世様式の建物で、左右に赤レンガと白い縁石の小塔があり、
屋根は青いスレート葺きです。
入り口は馬車門と人門の二つ、道路は中央で排水しています。
取り付けられた銘板には、「ジャン・コクトー/作家、詩人、映画人 / フランスアカデミー会員 は、17年間を過したこのメゾンで、1963年10月11日に亡くなった。」と書かれています。
51年前のことです。
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グラン・パレで HOKUSAI 葛飾北斎展 が10月1日から開かれています。
来年の1月18日までで、途中、11月21日から30日までは休館です。
グラン・パレの北端、シャンゼリゼ大通側です。
サミットにある彫像は Georges Récipon (1860-1920) による<時間を越えて不死 l’immortalité devançant le temps>という作品 (1900) で、4頭立ての戦車「クアドリガ quadrige 」に乗った女神が月桂冠を掲げています。
銘板には、3名の建築家の名と、シャルル・ジロー Charles Girault が 設計をしたプチ・パレと共に主席建築家だったこと、1890パリ万博のために1897から建造されたこと等が刻まれています。
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印象派の画家ピサロの<ピサロ美術館>があるロワイヤル城 Le Château Royal 跡から望む
オワーズ川とオワーズ橋 Pont de Pontoise です。ポントワーズの旧市街は手前側に展開しています。写真で奥になる上流は国境を越えてベルギーに及んでいます。
この橋 (1948) はモー Meaux を通るローマ街道の幹線の枝線で、パリとルーアンを結ぶローマ街道 Chaussée Jules César がオワーズ川を渡った所 (1070には石橋で12径間連続アーチ橋) です。
右側に真っ直ぐ行けばパリで、さらに、モーを経由してランスに向かう川沿いの道が枝分かれしていました。2つの枝線の結節地点でした。
depuis 2001
ルイ14世を<王権神授説>で支え、後のルイ15世の家庭教師を務めた
ジャック・ボシュエが住んだ (1681-1704) 司教の宮殿 Palais épiscopal (1160頃) です。
ボシュエ美術館 Musée Bossuet になっています。
18世紀に手が加えられて (Style Grand Siècle) 、
中世とルネサンス様式とが混交した館になっています。
後ろに見えるのがモーのサン=エティエンヌ大聖堂
Cathédrale Saint- Étienne/Meaux (1175-1540)です。
手前のミトラ (司教冠) の形をしたフランス庭園は17世紀のもの。
さながら、野菜類、ハーブ等の展示場になっていて来園者を楽しませてくれます。
ジャック・ボシュエ はサン・シュルピスの噴水 Fontaine Saint-Sulpice の北面を飾る彫像で見られます。J.Bossuet / Eveque(évêque) de Meaux と書かれています。
ルイ14世時代を代表する4司教の一人です。
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Sarah Bernhardt (1844-1923) は「最初のスター」と言われるフランスの大女優で、世界中で公演しました。ジャン・コクトーは彼女を「神聖な怪物 Monstre sacré」と呼びました。
ジスモンダのポスターを ミュシャ Alfons Mucha に依頼して (1894) 、彼をアール・ヌーヴォーの代表画家にしたことでも知られています。
画家、彫刻家、写真家でもあり、多才でした。
コメディ・フランセーズ Comédie-Française でヴィクトル・ユゴー作 ルイ・ブラス Ruy Blas (1838) のスペイン女王役を演じて大成功を収め、ユゴーから「黄金の声 Voix d’or」の愛称をもらったのが1872年。ユゴー作のエルナニHernani (1830) の興行が1877年。その頃のサラ・ベルナールです。
Georges Clairin (1845-1920) による大作<サラ・ベルナールの肖像 Portrait de Sarah Bernhurdt (1876)>で、彼女が亡くなった年に、一人息子のモーリス・ベルナール Maurice Bernhardt がプチ・パレ美術館に寄贈しました(額縁の頭部に記載されています) 。
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サラマンダー Salamandre tachetée (Salamandra salamandra) /火蜥蜴は
4大元素 (土・水・空気・火) のうち火を司る精霊です。
ルネサンス王/フランソワ1世はエンブレム emblème にこれを使いました。
火のように燃え盛る勇猛と豪胆を表現しています。
フォンテーヌブロー宮殿の「フランソワ1世の回廊 Galerie Francois Ier 」で、
多数のパターンを見ることができます。
写真はその一例で、象を描いた額縁の上部に火炎に囲まれたサラマンダーが水を吹いています。下部にもフランソワ1世の F の間に、その下の椅子の背もたれにも
サラマンダーが浅浮彫りされています。
フランソワ1世の回廊 は装飾設計したロッソ・フィオレンティーノ Rosso Fiorentino (1495-1540) のフレスコ画等で飾られ、彼はフランス・ルネサンス、フォンテーヌブロー派を育てました。
このフレスコ画はロワイヤル・エレファン l’Éléphant royal (1536頃) で、見え難いですがフルール・ド・リスの付いた象衣で盛装しています。額縁の頭部にあるサラマンダー (サンショウウオ) と合わせて、盛装した象がフランソワ1世自身であることを暗喩しています。
ロワイヤル・エレファンは、強さ、知恵、およびロイヤルティの持続可能性の象徴です。
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オルセー美術館は元はパリ・オルレアン鉄道 (1843) の終着駅 / オルセー駅兼ホテルだった。
ベル・エポックの頂点に開かれた第5回パリ万国博覧会 (1900) に合わせて、
オステルリッツ駅から電化・地下構造によってオルセー駅まで延伸された。
美術館に生まれ変わったのは1986年のことで、
印象派美術館と呼ばれていた<ジュ・ド・ポーム国立美術館 Galerie nationale du Jeu de Paume>の作品ををそっくり移転した。
写真は美術館の入り口側 (西面) で、左にセーヌ川が流れている。
革命記念日 (7月14日) のための国旗が多数見られる真ん中に PO とあるのはパリ・オルレアン Paris・Orléans 鉄道のロゴだ。その下に一対の<カドゥケウス Caducée>も見える。
現在、鉄道敷はSNCF の RER C 線として使われていて、駅名は Musée d’Orsay だ。
ジャックマール Alfred Jacquemart (1824-96) の<サイ Rhinocéros>(1878) と リュイヤール Pierre Rouillard (1820-81) の<ウマ Cheval à la herse>(1878) は何れも1878 のパリ万博のために制作され、メイン会場のトロカデロ宮殿 (1935解体) に置かれていた。
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ジェルヴェクス Henri Gervex (1852-1929) による
<プレ・カトランでの大夜会 Une soirée au Pré Catelan (1909)>。
ブーローニュの森にオープン(1905) した<プレ・カトラン Le Pré Catelan>の
オーナーの注文で描かれた。
19世紀後半から第一次大戦 (1914) に掛けての「ベル・エポック Belle Époque 」の時代、 その後期のパリ社交界の様子を窺うことができる。パリの良き時代だ。
社交界での当時の有名人が多数描き込まれているようだ。カルナヴァレ美術館所蔵。
本日、新宿から川之江に移動します。途中、岡山の高島屋で開催されている竹久夢二/ロートレック展を覗いてきます。
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パリ現代演劇の父とも言われるアンドレ・アントワーヌ André Antoine (1858-1943) が起こした<自由劇場 Le Théâtre-Libre> での公演プログラム。
<倒産及び詩人と金融資産家のプログラム Programme de Une faillite et Le poète et le financier,8novembre 1893.>、ロートレック Henri de Toulouse-Lautrec (1864-1901) によるリトグラフと紹介されている。
<パリ市立歴史図書館 Bibliothèque historique de la ville de Paris> の所蔵。
演目「倒産」はノルウェーのノーベル賞作家ビョルンソンBjørnstjerne Bjørnson (1832-1910) の作 (1874) で、
アンドレ・アントワーヌがステージングし主人公を演じた。
もう一つの演目はフランスの劇作家モーリス・ヴォガール (1863-1918) の作品だ。このリトグラフはギャラリー・イグレックでも所蔵している。ピガール広場に至る 37 rue André-Antoine に自由劇場に関する 銘板が設置されている。
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スタンラン Théophile-Alexandre Steinlen (1859-1923) の陶板画 (1902) 。
ロレーヌ地方の町ザルグミーヌ Sarreguemines の陶器 Faïence (1790-2007) で、普仏戦争が原因で設立した「ザルグミ陶器 Faïence de Sarreguemines パリ工場」でスタンランのイラストに基づいて製造したもの。
スタンランは Tournée du Chat noir (1896) や Lait pur sterilise de la Vingeanne (1896-1900) のリトグラフで知られるが、週刊風刺雑誌「Le Rire」等のイラストレーターとして多くの作品 (コロタイプ chromotypographies) を残している。
プチ・パレ美術館で開かれた<パリ 1900 展>にて。
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<プチ・パレ美術館>で所蔵の
Gustave Courbet (1819-77) 作の<眠り Le Sommeil>を観た。
オルセー美術館所蔵の有名なクールベの作品<世界の起源 L’Origine du monde (1866) >
と同じ年に描かれたものだ。
赤毛の方の女性はジョアンナ・ヒファーナン Joanna Hiffernan で、
<世界の起源>のモデルはこのヒファーナンだといわれている。
これらの絵画はオスマン帝国の外交官の注文によって描かれた。
ビュッフェ Bernard Buffet (1928-99) が同じ構図を描いた作品
<クールベに倣った眠り Le sommeil d’après Courbet (1955) >がある。
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Henri de Toulouse-Lautrec (1864-1901) の描いた珍しい装丁画<闘牛 La Taureaumachie (1894)>がプチ・パレで催された<パリ 1900 展>で展示されていた。
ナンシーの René Wiener (1855-1939) が<裸のマヤ>のゴヤ Francisco de Goya (1746-1828) のエッチング集を出版するに当ってその表紙を飾る絵をロートレックに依頼したもの。
デザインを構想するため闘牛の見物をするなどして先ず油絵 (1894・55.5x72cm) を描いた。ただし、-GOYA – LA TAUREAUMACHIE の文字はない。
2014.08.10.
depuis 2001
メトロ1号線の後方出口から地上に出れば目の前がヴァンセンヌ城 Château de Vincennes だ。村の塔 Tour du Village が正門で、建造時の高さで残っている。跳ね橋で濠を渡る。
奥に見えているのはマザランが造らせた<王の館と王妃の館>を取り囲むアーケード付き回廊の一部で、そのさらに向こうにある森の塔 Tour du Bois と重なっている。
ルイ14世はスペインとの国境の町サン・ジャン・ド・リュズ で結婚式を執り行った後、
現ナシオン広場 (1890以降) で王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュを迎え (その後、王座の広場 Place du Trône と呼ばれた。) 、これらの館で新婚生活を過した (1660) 。
アーチの上部に、フランス王の紋章 (フル―・ド・リス3つの盾の上にフル―・ド・リス付きの王冠) が嵌め込まれている。国防省の国防の歴史部門が置かれている旨の表示も見える。
有事の際、現政庁を代替する機能を備えていることはあまり知られていないという。
depuis 2001
アウステルリッツ橋からセーヌ左岸の高水敷に降りると
河畔にティノ・ロッシ公園 Jardin Tino Rossi がシュリ―橋まで続いている。
この公園は<野外彫刻美術館 Musée de la Sculputure en Plein Air> に成っていて (1970) 、
20世紀後半の彫刻が散りばめられている。
池の中の彫刻はJean Ipoustéguy 作 (1975) の<Hydrophage>。
噴水の向こう白いのは Augustin Gardenas 作 (1974) の<Grande Fenêtre>。
写真の右手が上流で、セーヌの遊覧船はこの辺りで下流に向けてUターンする。
Château de Saint-Germain-en-Laye の歴史は12世紀 (1124頃) に遡る。
ルイ6世に続きサン・ルイ (ルイ9世) が拡張 (1238) 、
16世紀になって、フランソワ1世が今見られるルネサンス様式に改築した。
城の左手にアンリ2世が新城を建造、アンリ4世が拡張したので、古城と呼ばれた。新城は革命後没収され、取り壊されて土地は売却された。
アンリ4世館 Pavillon Henri IV Restaurant はその名残だ。
ロッジュ門 Grille des Loges から見た城館。城まで約400m、砂利道の向こうには大花壇が続く。手前には、写真左右の並木を持つロッジュ大通りが一直線に森を貫く。
国立考古学博物館 Musée d’archéologie nationale が入っている。
depuis 2001
ロートレック Henri de Toulouse-Lautrec (1864-1901) が 1995-96 に描いた油絵
<ボレロを踊るマルセル・ランデ Marcelle Lender dansant le boléro dans Chilpéric >。
1900年当時のパリを彷彿させる象徴としてワシントン・ナショナルギャラリー National Gallery of Art, Washington からお里帰りしてきた。縦横ほぼ 1.5m の大作。
マルセル・ランデ (1862-1926) はロートレックお気に入りのダンサーの一人。
1968年に京都で盗難事件のあった (7年の時効直後に見つかった) アルビのロートレック美術館所蔵の<マルセル Marcelle (1894) >と同一人物だ。
パリ市立のプチ・パレ美術館で開催されている<La Ville Spectacle PARIS 1900>にて。2014.08.10.
3896
今日8月11日(月)は気温が室内で22度、寒くて風を引きそう。初秋の兆しが・・・
depuis 2001
ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵の Henri de Toulouse-Lautrec (1864-1901) の作品 <Marcelle Lender dansant le boléro dans Chilpéric > がポスターに使われている。
Marcelle Lender は歌手、ダンサー、エンターテイナーの名で、彼女がオペレッタの中のボレロを踊っている様を描いたもの。彼女はこの油絵で後世に名を残した。
プチ・パレは 「1900年パリ万博」のパヴィリオンの一つ。
パリ絶好調の時代模様を美術・工芸・衣装等の面から紹介した展覧会だ。8月17日まで。
パリ市立プチ・パレ美術館で10時の入場を待つ人々の行列。
3896
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中世の商業都市・金融都市プロヴァン。シャンパーニュ伯の居城として栄えた城塞都市。
シャンパーニュ伯爵領内での交易の安全を保障したので、
定期市に諸国の商人が集まってワイン・毛織物等の取引で繁栄した。
13世紀には急速に衰退したが今なおその当時に近い形で残されていて、
世界遺産に指定されている。
<セザール塔 Tour de César>は12世紀のドンジョン。
収穫の10分の1を徴収した、いわゆる10分の1税の穀物倉は13世紀のもの。
Gare de l’Est で SNCF P 線に乗車し、終着の Provins で下車して徒歩。
すぐに中世の街並みに入る。
2014.07.28.
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RER D4 線 Maisse で下車、前もって呼んでおいたタクシーでミリ=ラ=フォレ Milly-la-Forêt へ行った。
ジャン・コクトー Jean Cocteau が亡くなった町であり、屋敷は美術館になっていて、近所にお墓もある。
Maison de Jean Cocteau の横に今は廃墟同然となっているボンデ城 Château de la Bonde がある。12世紀に起源を持つこの城は15世紀末に再建され、<エクーアン城>を建設したアンヌ・ド・モンモランシーの祖父 Jean II de Montmorency が所有していた時期がある。
大木の緑で左半分が見えないが、
すぐ左にコクトーの邸宅が隣接し、城の裏側の森に繋がっている。
8913
depuis 2001
RER A 線から Chatelet Les Halles のホーム上で B 線に乗り換えて Gare du Nord まで行き、 SNCF H 線に乗り換え Écouen-Ézanville で下車、Bus 269 で Mairie / Église から徒歩5分。
Château d’Écouen はルネサンス様式前期から後期にかけてのシャトウ (1538-50) だ。Jean Bullant (1515-1578) による建築。
フランソワ1世からアンリ2世、フランソワ2世、シャルル9世等に仕えたアンヌ・ド・モンモランシー Anne de Montmorency (1493-1567) の城館として建てられたものだが、半分はアンリ2世の城でもあった。
城内に国立の<ルネサンス美術館 Musée national de la Renaissance>がある。
火曜日はルーブル美術館等休館日であることを承知で出かけたので、再訪することにしたい。
右面が正面。左面からの眺望は素晴らしい。左面反対側に美術館の入り口がある。
8851
depuis 2001
フランソワ・マンサールの造った前期ルイ14世様式の城 (1641-51) で、
ルネサンス様式に対して威厳や壮大さの追求がなされている。
ルイ13世治世下の財務卿 René de Longueil の館メゾン城。ルイ14世が訪れたのは1651年。
フーケのヴォー・ル・ヴィコント城 Château de Vaux-le-Vicomte (1656-61) の設計者ル・ヴォーはメゾン城 Château de Maison に精通していたことで選ばれたという。
RER A 線 Maison Laffitte 下車。徒歩20分程度。ジャン・コクトーの生まれた町。
革命後国が没収して売却、
最終的に銀行家ラフィットの所有 Château de Maison-Laffitte となった。
メゾン・ラフィット城の骨格を残して、敷地の大部分を超高級住宅地として分譲した邸宅街がシャトウのロータリー (城の後方) から十字に広がっている。
François Mansart (1598-1666) のバロック建築でシャトーの規範となった。彼の建築では、他にヴァル・ド・グレース教会 Église du Val-de-Grâce 等が現存している。
手前はセーヌ川で、城の軸上にパリに向う橋梁が架かる。河川敷はゴルフ場や競馬場。
10426 7560
depuis 2001
ルイ14世にヴェルサイユ宮殿を造らせた
ヴォー=ル=ヴィコント城 Château de Vaux-le-Vicomte (1661・1875) 。
マザラン枢機卿の下で財務卿を務めたフーケ Nicolas Fouquet (1615-80) の館。
ヴァンセンヌ城とフォンテーヌブロー城 (宮殿) の中間に立地を求めたと言われる。
マザランの後継を自認していたフーケが王の求めで祝宴を開いた際、ルイ14世は余りのバロックの豪華さと壮麗さに嫉妬にも似て驚愕したと伝えられる。(その後、フーケは監禁され、屋敷は没収され供託に付された。)
ルイ14世はヴォー=ル=ヴィコント城建設に携わったル・ヴォー、ル・ブラン、ル・ノートル等にこれを凌ぐ城としてヴェルサイユ宮殿の建設を命じたのだ。
リヨン駅から RER D2 線を使ってセーヌ川沿いに上流に進んで Melun で下車。タクシーで10分ほど。帰りは BUS (季節バス) と SNCF R 線を利用した。
8035
depuis 2001
モンパルナス駅 Gare Montparnasse から
SNCF N 線で終着駅のランブイエ Rambouillet で下車。
ナシオンから6号線でモンパルナスへ出たのだが、
モンパルナス以遠終点のトロカデロまでは工事のため閉鎖だった。
駅から Château du Rambouillet まではぶらぶら30分弱。
駅前から左へタイル舗装された歩道を道なりに行くのが分かりやすい。
サルコジ前大統領は夏の離宮として利用していた。
狩猟で度々訪れていたフランソワ1世はこの城で亡くなった (1547) 。
11637
depuis 2001
シャルル・ド・ゴールが大統領であった時代 10年間に亘って使用し、古くはポンパドール夫人も住居にしていた Château et Parc de Champs-sur-Marne (85 ha) に行ってきた。
昨年7月に再オープンしたことがメトロの大広告に出ていたので、
家から近いこともあり散歩がてらの感じで<フランス式エレガンス>を味わいに出かけた。
RER A 線 Bry sur-Marne で下車、Bus 220 に乗車して Mairie de Champs で下車、徒歩 100m 。7.5€。
8867
depuis 2001
印象派の画家 ピサロ Camille Pissarro が多数の絵を残した
<芸術と歴史の街 Pontoise>を訪ねた。
パリ北駅 Gare du Nord から SNCF H 線の終点。Saint-Lazare からだと J 線。
帰りは RER C1 線でBoulevard Pdt. Kennedy で下車し、BUS 72 で Hôtel de Ville にでた。
セーヌの右支流オワーズ川 L’Oise の今日。
右が下流。左側の少し上流がエルミタージュの住宅地で、ここで多くの絵を描いた。
ポントワーズは城郭都市で、
写真手前側に城壁が残っていてその上に城 Le Château Royal があった。今は、ピサロ美術館 Musée Pissarro になっているのだが、休館、休時間が多く入れなかった。
* * *
8月1日-17日まで女性ラグビーの世界選手権がフランスで開かれるようだ。
11901
depuis 2001
RER A 線の La Défence で SNCF に乗り換えて Marly-le-Roi にでかけてきた。
ルイ14世が贅を尽くしたマルリー城 Château de Marly の庭園 Parc du Marly が目的地だ。
L 線の駅であることと終着駅とさえ知っておけば乗換えが容易だ。
駅前の通りを登って 20分ほどで庭園。
RER A 線サン・ジェルマン・アン・レーへは BUS 10 で20分ほどだ。
コンコルド広場からシャンゼリゼ大通りへの入り口の両サイドに置かれている (1795)
クストー Guillaume Coustou (1677-1746) 作の彫像
「アフリカ人に飼い馴らされたヌミジアの馬」、通称<マルニーの馬 Chevaux de Marly>はこの庭園に置かれていたことにその名を由来する。
チュイルリー公園への入り口両サイドにあるコワズウォーの作、「天馬の彫像」もクストーの作品に置き換わる前にこの庭園に置かれていたものだ。オリジナルはいづれもルーヴル美術館に移されている。
王の館 Le Pavillon Royal du Château de Marly は遊歩道の向こうに礎石だけが残っている。奥はセーヌ川。デファンスからマルリー・ル・ロアに着く直前にこの谷を高架で横切る (並木の途切れた所) ので、進行方向左側に注目のこと。
写真の作品はマルニーの公園に残ったクストー Nicolas Coustou (1658-1733) による<イノシシを狩るメリーガの像 Statue de Méléagre chassant un sanglier (1706) >。
バロック様式の彫像 (複製/キャスト) 。
メリーガはギリシャ神話での「イノシシ狩りのメレアグロス」のこと。
女狩人「アタランテーAtalante」と共に知られる。
写真の右には
<シカを狩る彫像 Statue de Méléagre chassant un cerf (1706) >が置かれている。オリジナルは<ルーヴル美術館マルリーの間>にある。
11846
depuis 2001
久方ぶりにジョセフィーヌの Château de Malmaison を覗いてみた。
RER A 線を使ってデファンス La Défence で下車、BUS 258 の案内標識を辿ってバスターミナルの乗り場へ。20分間隔で運行されているサンジェルマン・アン・レー行き (258 系統) のシャトウで下車、徒歩 300m。
再び 258 で目的地のアン・レーへ。
RER サンジェルマン・アン・レー駅が改修工事中のため手前の駅からの代替バス接続になっているので、「それならマルメゾンにも寄って」とこのルートを選んだ。
11427
<再掲>
<シャトウ・ マルメゾン>に展示されているジョセフィーヌの肖像画です。
1796年から1810年までのナポレオンの妻でした。
ルーブル美術館にある Jacques-Louis David の大作<ナポレオンの戴冠式>で、皇帝ナポレオンから皇后の冠を受けているのがジョセフィーヌです。1804年のことです。
ジョセフィーヌはナポレオンがエジプト遠征中の1799年にこの土地を購入、
当時60ヘクタールを超える広さだったといいます。
上段が入り口。
中段がメゾンの正面。
左がメゾンの中、寝室です。
ナポレオンの戴冠 (Le Sacre de Napoléon)
depuis 2001
Gare de Lyon から SNCF R 線を使えば3駅目の Fontainebleau-Avon で下車、バス1番でフォンテーヌブロー宮殿 Château royal de Fontainebleau に行ってきた。RER D2線で Melun で乗り継ぐのもあるのだが乗り換えなしの手を使った。<Montargis 行き>に乗ることを知っておくと間違いが無い。
この前訪れたのは10年以上も前のことで、「スタップ細胞はあります」の小保方で一躍有名になった理化学研究所のリコーがデジカメを発売した頃だった。
鉄柵と門扉は、Nのモノグラムで分かるように、ナポレオン1世がフェラール翼と呼ばれていた建物を取り壊して設置 (1808) したものだ。写ってないが両サイドにナポレオンの鷲が向き合っている。
宮殿正面前の馬蹄形の階段でエルバ島に流される際に近衛兵に対し演説をしたことは有名。
08183
depuis 2001
ヴァンセンヌ Vincennes から RER A線で30分少々の Rueil-Malmaison 下車・徒歩圏の
印象派の島 L’Ile des Impressionnistes に出かけた。
以前、ジョセフィーヌのシャトウ・ド・マルメゾンへ行ったときもこの駅で降りた。
良い天気で散歩やジョギングをする人々、サイクリングを楽しむ人たちが目に付いたが、何よりもレストランが大盛況だった。
<ルノワールのバルコニー>は予約でいっぱい (予約客の来る前に撮ったもの) 。
ルノワール Pierre Auguste Renoir (1841-1910) が描いた< 舟遊びの人々の昼食 (1801) >の舞台であるレストラン・フルネーズ Restaurant Fournaise だ。ルノワールの絵を基に日除けなどが再現されている。
アラカルトでプラットとデザートを取ったが、鴨肉がとても美味しかった。35€程度。
Restaurant Fournaise
右が印象派の島にあるレストラン、左はセーヌ川左派流。中心の女性はルノワールの彼女。ルノワールはリモージュ出身。
ワシントンのナショナル・ギャラリーには
ルノワールの<シャトウ Chatou で舟遊びをする人々 (1881) >がある。
鉄道が開通してルノワールやシスレー、モネなど印象派の画家たちがこのレストランに出入りしていたという。
<フルネーズ美術館 Musée Fournaise >になっている
La Maison Fournaise の説明板によるとモーパッサンも訪れたらしい。
depuis 2001
パリに残るローマ遺跡のひとつで、
パリの船主組合が3世紀頃に建造した公共浴場跡を取り囲む鉄柵。
奥にクリュニー大修道院長が建てた館 (14世紀) があり、クリュニー美術館 Musée de Cluny になっている。長らく工事中だったが、入場門のある裏塀もほぼ完了したようだ。
何十年も前に一度だけ入ったことがある。ジョルジュ・サンドが発見したとか絶賛したとか言われるタビストリー<貴婦人とユニコーン>だけは記憶に残っている。
depuis 2001
スタニスラス公が亡くなってロレーヌ公国がフランスに併合された翌年 (1769) にロレーヌ大学 (1572) として建設されましたが、フランス革命を経てナンシーの市立図書館になっている古い建物です。
門柱に据えられているのは<ナンシーの市章 Blason de Nancy > です。
シールドの上半分が「ロレーヌ公の紋章」で、下半分に「アザミの葉と花」があしらわれています。市庁舎には恐らく簡略化した類似の市章 (上半分に3羽の鷲のリボン:「ロレーヌの紋章」、下半分に「アザミの葉と花」) が浅浮き彫りで付いています。
ロレーヌ公の紋章 Armoiries des ducs de Lorraine は公国のそれとともに変遷していますが、使われているのはアントワーヌ公 Antoine de Lorraine 治世の1538 年以降の紋章です。
中央にロレーヌ (鷲が3羽) 、上段左からハンガリー・シチリア・エルサレム・アラゴン、下段にアンジュ・Gueldres・ユーリッヒ・バールの紋章です。識別できませんが・・
ロレーヌ公国がアザミを使い始めたのは<ナンシーの戦い (1477) > でブルゴーニュ公国のシャルル豪胆公を破ったルネ2世公 René II de Lorraine の頃 (1489) からといわれています。
<ロレーヌのアザミ>はブルゴーニュ公国に対する抵抗の象徴とされていたようです。この紋章はその後ナンシー市に与えられました (1575) 。なお、スコットランドのアザミは敵からの防御に役立ったという故事によっています。
ドラクロワ Eugène Delacroix がシャルル豪胆公の死の寸前を描いた<ナンシーの戦い La Bataille de Nancy (1831)>は<ナンシー美術館 Musée des Beaux-Arts de Nancy>で見ることができます。
パリ東駅にあるナンシーの紋章は、ナンシー市庁舎のそれと同様、簡略化した「ロレーヌの紋章」と「アザミの葉と花」になっています。「ロレーヌ公の紋章」でないのは彫刻技術的な理由からと思われます。
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<ナンシー派美術館 Musée de l’École de Nancy>で見れる
アール・ヌーヴォー Art nouveau のダイニングルーム Salle à manger 。
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ナンシーでのアール・ヌーヴォー運動は1901年にエミール・ガレ Émile Gallé (1846-1904) を会長に5名でナンシー派 École de Nancy として旗揚げされました。
彼らの作品群を <ナンシー派美術館 Musée de l’École de Nancy> で鑑賞することができます。ナンシー派のパトロンであったウジェーヌ·コービンEugène Corbin (1867 -1952) の屋敷が美術館となっています (1964) 。入り口の銘盤にその名が刻まれています。
中庭から見た邸宅です。写真の右では手入れされた木蓮の花が満開近くでした。2014.04.11.
アール・ヌーヴォー / ナンシー派の建築家 Lucien Weissenburger (1860-1929) の作品です。
右奥の屋敷からガラス越しに見た庭園で、アクアリウムが見えています。屋根は日本の晩傘をモチーフにしたと言われています。
アール・ヌーヴォーはジャポニスム Japonisme の流れの中にあります。
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ナンシーのスタニスラス広場に面して
<ナンシー美術館 Musée des Beaux-Arts de Nancy>があります。
スタニスラスが取り壊した要塞 Bastion d’Haussonville の
基礎部分の一部を美術館で見ることができます。
ナンシーで生まれた (1878) クリスタル製造業者 ドーム兄弟 Daum Frères の700点を超えるコレクションが発掘された遺構の上に展示されています。
アンテルカレールやヴィトリフィカシオンの技法を使っています。
「ジャンヌ・ダルクの紋章」と「ロレーヌの十字」をあしらった花瓶 < Vase aux armes de Jeanne d’Arc (1894) >がある筈なのですが探し出せませんでした。
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国際連合が世界人権宣言を採択したのは
1948年にシャイヨー宮で行われた総会においてだった。
写真はシャイヨー宮の右ウイングで、<人類博物館>と<海洋博物館>が入っている。
右手の左ウイングとの間が 人権と自由の広場 Parvis des Droits de l’Homme et des Libertés で、観光客が トロカデロと11月11日広場で下車してエッフェル塔見物に向かう通り道だ。広場の両サイドはそれぞれ4体、金色の彫像で飾られている。
写真の4体は手前から,果物 Les Fruits ( Félix-Alexandre Desruelles (1865-1943) 作 )、朝 Le Matin ( Pryas (1891-1985) 作 ) 、庭師 Les Jardins ( Robert Couturier (1925-2008) 作 ) 、鳥 Les oiseaux ( Lucien Brasseur (1878-1960) 作 ) で、いずれもシャイヨ宮お披露目のパリ万博 (1937) 開催時の作品。
ジャン・ポール・ベルモンド Jean-Paul Belmondo 主演の映画<リオの男 L’Homme de Rio (1964) >は人類博物館からブラジル古代文明の一つの彫像を盗み出すところから始まる。
彫像<果物 Les Fruits>とエッフェル塔、手前の黒い男が盗んだ像を持って逃げだしているシーン (映画から借用) 。ベルモンドは三つの像の謎を追って、リオ・デ・ジャネイロ、ブラジリア、アマゾンへと向かう。
余談だが、南アメリカでブラジルだけ (西経46度37分が縦断する) がポルトガル語を話す旧ポルトガルの植民地だったのは、以西をスペイン権益として両国間で締結したトルデシリャス条約 (1494) によるもの。
モンパルナスタワー Tour Montparnasse (1969-72) はアポロ11号が月面着陸 (1969.07.20.) したこの5年後に着工だから写っていないのは当然。
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ルーブル宮の起源は<フィリップ・オーギュストの城壁>の一部を担うルーブルの要塞 (1190) だ。その後、<シャルル5世の城壁>のシャルル5世がシャトーに衣替え、フランス・ルネサンスのフランソワ1世 (在位1515-47) がレオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザ等のコレクションの収納も兼ねてルネサンス様式による宮殿の増改築を計画し、アンリ2世 (在位1547-59) に引き継がれる。その後も、アンリ4世による大増築などルイ14世に至るまで整備が進められる。
写真はクール・カレCour Carrée からピラミッドのあるクール・ナポレオン Cour Napoléon への連絡口 ( レスコ―翼 / シュリ―翼 ) に見られる<アンリ2世のモノグラム>。
H (アンリ) と H にダブルD (アンリ と 愛妾ディアーヌ・ド・ボワチエ Diane de Poitiers ) 。 王妃カトリーヌ・メディシス Catherine de Médicis の C には見えない。
レスコ―翼の彫刻はアンリ2世お抱えのルネサンス様式の彫刻家 ジャン・グージョン Jean Goujon (1510-66) のもの。ただし、連絡通路になっているパヴィヨン·ドオロロージュ Pavillon de l’Horloge 左の彫像群は<La Sculpture. François Jouffroy (1861) >等後に加えられたもの。
レスコ― Pierre Lescot (1515-78) による建築。パリ最古の噴水<罪のない泉>の建築家。
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メトロ6号線のパッシー駅で降りて,階段を下って西側直ぐの
<ワイン博物館 Musée du Vin>の鉄柵。
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3.11 /2011 から丸3年が経過しました。 <東北の厄除けこけし>
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元サマリテーヌ (百貨店 1869-2007 廃業) の創業者コニャック夫妻がパリ市に寄贈したコレクション。<Musée Cognacq-Jay >
マイセン磁器を多数所蔵しているが、レンブラント Rembrandt van Rijn (1606-1669) の描いた<預言者バラムのロバ L’Anesse du Prophète Balaame (1626)>も鑑賞できる。
弱冠20歳の時の作品で、ローマのカラヴァッジオの影響を受けた師匠のピーター・ラストマン Pieter Lastman (1583-1633) 譲りの歴史画とされているもの。
イスラエルに呪いをかけるため、従者を伴って出かけたバラムを神の使いである天使が剣をかざして止めようとしている。天使が見えて止まろうとするロバを天使の見えないバラムが打着して進ませようとしている場面 (旧約聖書) を描いたもの。
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グルネル通り、<マイヨール美術館 Musée Maillol >のエントランス (写真の右端) にもなっている「四季の泉」に浅浮彫されたパリの市章。
左右に四季を寓意する4つの彫像があり、その中にパリ市章 Blason de la ville de paris がはめ込まれている。
写真では左右の端に市章、左に夏 (小麦) 、右に秋 (ぶどう) の彫像が見れる。市章の左に春 (花) 、右に冬 (ストール) がある。
中央の女性像が<パリ市 La Ville de Paris>と名付けられた彫像で、舳先にライオンの頭部を付けた船に寄り掛かった構図になっている。この modèle はカルナヴァレ美術館で見れる。
ルイ15世の命により、エドム・ブーシャルドン Edmé Bouchardon (1698-1762) が彫刻した (1739 / MCDDXXXIX ) 。
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16世紀末にフランドル派の画家が描いたとされる<羊の世話をする 聖ジュヌヴィエーヴ Sainte-Geneviève gardant ses moutons >。カルナヴァレ美術館 Musée Carnavalet で見れる。
奇妙な巨石で囲われた中でパリの守護聖人である聖ジュヌヴィエーヴ Sainte-Geneviève が羊の世話をする様を表す。
背景はパリの東側からの俯瞰で、左端からシャルル5世 (1330-80) 造営のバスティーユの要塞、城壁を経てモンマルトルの丘と大修道院等が描かれている。
ヴァロア朝 3代目の王シャルル5世はヴァンセンヌ生まれで、後の絶対王政につながる「税金の父」、「賢明王」と呼ばれる。最初のドーファン (王太子) 呼称者であり、王家の紋章を「フル―・ド・リス 3つ 」に改めた (1376) ことでも知られる。
* * *
今日の東京は未明から雪が降り続け、
昼前には今夜半から明日にかけて大雪警報が発令された。
羽田国際空港も大混乱、国内便の欠航が相次ぎ、
国際線も搭乗手続きを中断していて欠航便も出始めた。
午後8時段階で東京の積雪は25センチメートルを記録、
1969年以来45年ぶりの大雪となった。
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国立工芸院 Conservatoire des Arts et Métiers 前からサン・マルタン門 Porte St-Martin を望むサンマルタン通り Rue Saint Martin の街燈。
右が国立工芸院で、手前に<パリ工芸博物館(旧国立技術博物館 Musée National des Techniques )>が隣接している。
博物館前には<自由の女神像>が、中にはその原像が展示されている。
サン・マルタン通りはパリで最も古い通りの一つで、ローマ時代の<カルド Cardo >、南北軸の北側道路だ。
街の中心、シテ島を貫いて、南側道路はサン・ジャック通り。
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Bonnne Année from Paris, Mes meilleurs voeux pour cette année 2014
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年末になりますが、<グランパレ美術館>での
カルティエ Le style et l’histoire 展 に行ってきました。
こぶりな展覧会ながらも、迫力の宝石コレクション。特にマハラジャの宝石は圧巻でした。 展覧会は2/16日まで。
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現在のコンコルド広場は元々は<ルイ15世広場>として設計され建設された。
その中心にはルイ15世の騎馬像が設置されたが、写真はその縮小版 (1758) で、<カルナヴァレ美術館>にある。
フランス革命 (1789) により騎馬像は破壊され、コンコルド広場に変わったが、
王政復古後ルイ15世広場、ルイ16世広場と名を変え、コンコルド広場が定着するのは7月革命 (1830) 後のことだった。
エドム・ブーシャルドン Edme Bouchardon (1698-1762) と彼の死後引き継いだ ジャン・バブチスト・ピガール Jean-Baptiste Pigalle (1714-85) との共作 (1762) 。
ルイ15世 (1710-74) はルイ14世からの上位王位継承権者の相次ぐ死去により、図らずも王位に就くことになる。5歳で王となり、在位 59年多数の公妾を持ち、最愛王と呼ばれた。王妃はスタニスラスの娘 マリー・レクザンスカ 。
公妾の一人でブルジョア出身のポンパドール侯爵夫人 (1721-64) は有名。国政に関与するほか、セーブル焼の発展に尽力するなどフランスの芸術の振興にも寄与した。
写真は、<スコットランド国立美術館 National Galleries of Scotland >所蔵の
ポンパドール夫人 Madame de Pompadour で、
フランソワ・ブーシェ François Boucher (1703-70) の作品。
衣装・調度はロココ調。書物を手にしているのは彼女の知性と教養を表現しているのだろう。
この絵はミュンヘンにあるドイツ国立美術館<アルテ・ピナコテーク Alte Pinakothek > 所蔵の全身像の大作 (1756) の部分レプリカだと考えられている。
ブーシェは1751年に夫人の絵画と彫刻の先生に指名されている。ロココ様式の代表画家で夫人の肖像を多数描いている。
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<ロータリーとモニュメント 18 シャトレ広場>を更新しました。
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サンド夫人の娘、ソランジュと結婚した オーギュスト・クレサンジュ Auguste Clésinger (1814-83) の作品。
サロン出展時にそのエロチックさで物議をかもした<蛇に咬まれた女 (1847)オルセー美術館>の一年後に発表した別ヴァージョンで、<泥酔した女 Bacchante (1848) >。葡萄が泥酔を寓意している。<プチ・パレ美術館>所蔵。
2作品ともクレサンジュ自信の作品であったが、フレデリック・ショパンの評価もショパンと親交のあったユージン・ドラクロワの評価も芳しくなかったようだ。
ショパンが頼りにされ、何かと相談に乗ってやっていた (そのせいでサンド夫人との破局に至ることになるのだが ) ソランジュ、ショパンとそりの合わなかったクレサンジュだが、たまたま近くのシャイヨーにいて夫婦してヴァンドームでのショパンの死 (1849) に立ち会うことになる。そして、ペール・ラシェーズにあるショパンの墓碑をクレサンジュが製作する (1850) 。
平野啓一郎の小説、「葬送」に詳しい。葬送はショパンのピアノソナタ第2番。
Bulgaria
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<ルイ16世とマリー・アントワネットの即位>と題されたセーブル焼き。
原版は彫刻家 ルイ・ボワゾ Louis-Simon Boizot (1743–1809) の作。
1775年6月11日、ランスで行われた、ルイ16世の戴冠式の記念の焼き物。
<ロワイヤル祭壇 l’Autel royal >とも呼ばれる。
即位は1774年5月10日。
<カルナヴァレ美術館>で見れる。
説明文では戴冠式年が1774年になっているが、間々あることでフランスらしいとでもいうのだろうか?
玉に王の紋章/三つのフルー・ド・リス trois fleurs de lis 、台にモノグラム/ルイ・ブルボンのダブルL 。装飾をつけて、アントワネットの A にも見えるようにデザインしたと思われる。M にも?
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<ガリエラ美術館>裏の庭(開放)、
ブリニョーレ・ガリエラ公園 Square Brignole-Galliera からのエッフェル塔。
手前の彫像はヴァンドーム広場の Colonne Vendôme に主に携わった、新古典主義からロマン主義への過渡期の代表的彫刻家、フランソワ・ルード François Rude のために作製した Just Becquet (1829-1907) による<神のパンと虎 Dieu Pan et un tigre>という作品 (1899) 。
虎は左前足だけ見える。
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国立磁器博物館 Musée National du Ceramique の鉄柵。写真は 2007.08.08 .のものだが、右端に写っている Statue de Bernard Palissy は昨年訪問したときには取り外されていた。修理していたのだろう。
ベルナール・パリッシー (1510-89 ou 90) はルネサンス期のガラス職人であり陶工であった。磁器の研究もし、ガラスを巧みに使った磁器さながらの陶器を製作した。
フランスで磁器が生産されるようになるのは1738年以降だ。
サンジェルマン・デ・プレ教会横の公園 Square Félix Desruelles に同じ立像がある。ルイ·アーネスト・バリアス Louis-Ernest Barrias (1841-1905) の作品 。
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トゥールーズ・ロートレック がムーラン・ルージュで描いたキャバレーの有名なダンサーの一人、ジェーン・アヴリル Jane Avril 。写真の肖像はブールデル作の粘土型に基づいて、リモージュのManufacture Théodore Haviland がリモージュ焼きの磁器 Porcelaine として制作 (1900) したもの。
1900年のパリ万博に同社が制作して出品した リモージュ焼き La porcelaine de Limoges の一つで、今も同社の所有だと思われる。<ブールデル美術館>での (特別) 展示で見ることができた。
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円柱のある二層の回廊を抜けたところ。中心に見覚えのある彫像が・・・2013.08.14.
シャトレ広場 のモニュメントのサミットで金色に輝く<La Victoire / 不滅 Immortalité >のオリジナルだ。ルイ・ボワゾ Louis-Simon Boizot (1743–1809) の作品 (1808) 。
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フラン・ブルジョワ通り Rue des Francs Bourgeois から<カルナヴァレ美術館>の中庭 Jardin de l’hôtel Carnavalet が見れる門扉 (本来の正面玄関) のデザイン。
外周に見られるモノグラムは全てヴァロア朝のアンリ2世に纏わるもので、
H はアンリ2世、C は王妃カトリーヌ・ド・メディシス、
D は愛人ディアーヌ・ド・ボワチエ Diane de Poitiers の頭文字。
また、三日月三つはアンリ2世が用いた (ヴァロア・アングレーム家の) エンブレムだ。
門扉のアーチ部の中心にパリの市章が付けられていて、フランス革命100周年の1889年が刻まれている。
Hôtel Carnavalet はパリ市議会議長の Jacques de Ligneris が1548~60 年に屋敷として建てたものだが、アンリ2世の治世 (1547-59) 下にあった。モノグラムはそのためだろうと思われる。オスマン男爵 (セーヌ県知事) の勧告で1866年にパリ市が買収した。
<シテ島の時計の塔>にあるように、H に C 二つ で、D 二つにも見えるように工夫されたモノグラムだと承知していたのだが、ここでは横棒がなく、D 二つになっている点に注目したい。
明日はこの写真では判然としない扉の中に入ってみることにしよう。
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バルザック Honoré de Balzac (1799–1850) が住んだ家 Maison de Balzac で、急な崖地の中段にある。借金取りから逃げやすいようにという動機があったといわれる。左の階段を上がったところが入口で、その辺りからもエッフェル塔の頭部が見える。
パリ市が所有していて、入場料は無料だ。最近リニューアルされたようだがここ10年来入ったことがないので中の様子は分からない。この前を通って毎日日用品を買いにパッシー Passy のイノ等に通った時期がある。
ブリジット・バルドー主演映画<裸で御免なさい En Effeuillant la Marguerite (1956)>はバルザックの家とその周辺を舞台として制作されている。
Hôtel de Ville からバス 72 Ankara 下車。
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マリー・ドルレアン Marie d’Orléans (1813-1839) の作品 (1837) 。
7月革命 (1830) から2月革命 (1848) の間のいわゆる7月王政のフランス王ルイ・フィリップ1世の次女で、ヴュルテンベルク公爵夫人 (1837年に結婚) は彫刻家でもあって、この作品を残した。
ヴェルサイユ宮殿にある大理石の彫像の縮小版のブロンズ (Victor Susse による鋳造) 。
<ロマン派美術館 Musée de la Vie rommantique >で見れる。
最寄り駅は メトロ 2号線 ブランシュ Blanche もしくは ピガール Pigalle
18号台風一過の今日は爽やかな秋晴れで気温は23度。肌寒いほどに感じられます。羽田も、新宿もさぞ気持ち良い陽気でしょう。
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今日は、ツールーズ・ロートレック Henri de Toulouse-Lautrec (1864-1901) の誕生日だ。
今年の8月、ロンドンの <ナショナル・ギャラリー National Gallery > を2年ぶりに訪ねた。昨年8月、アムステルダムの <ゴッホ美術館> で行われていた ロートレックの企画展 で見た<Woman Seated in a Garden (1891)> (ガブリエルの肖像) が帰ってきていた。が、撮影禁止 (カメラで常時監視で、死角はない) なので、写真は出張時のものだ。
* * *
<オルセー美術館 Musée d’Orsay> 所蔵の <Justine Dieuth (1890) >
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<コモン・センス>の著でアメリカの独立戦争を、<人間の権利>でフランス革命を支えた哲学者トーマス・ペインの金色の立像がモンスリー公園 Parc Montsouris にある。
台座の正面には、THOMAS PAIN / 世界人 / 1737-1809
生まれではイギリス人 / 市民権ではフランス人 / 国籍ではアメリカ人
裏面には、コモン・センス (1776) 、危機 (1776-83) 、人間の権利 (1791) 、
理性の時代 (1793-94) の著者とある。
彼は、1787年から1802年までフランス革命の前後を主にフランスで過ごした。
この立像の作者は、あの有名な「ラシュモア山の大統領の頭群 ( ジョージ・ワシントン、 トーマス・ジェファーソン、 セオドア・ルーズベルト、 エイブラハム・リンカーン) 」のガットスン・ボーグラム Gutzon Borglum (1867-1941) だ (1934) 。両者の制作時期は重なっている。
右に見えるのはパリ国際学園都市 Cité internationale universitaire de Paris で、日本を含む世界各国の留学生会館群のほんの一部。丁度、トラム T3a が通っている。 Cité Universitaire 下車。
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アンヴァリッド Hôtel de Invalides の正門を真っ直ぐ進んでアンヴァリッドの中庭に入ると、多数の大砲 Canon が展示されている (左右が<軍事博物館 Musée de l’Armée >) 。
<フランス王の紋章 Armoiries du roi de France >に倣ったメーヌ公の紋章。
外側の聖霊の騎士団 Ordre du Saint-Esprit のメダリオン、マルタの十字・下向きの白鳩、
内側の聖ミカエルの騎士団 Ordre de Saint-Michel のメダリオンやサン・ジャック等が細かく刻まれ、鋳造されている (1706) 。
ルイ・オーギュスト・ド・ブルボン(メーヌ公) Louis-Auguste de Bourbon, duc du Maine (1670-1736) はルイ14世の庶子で、大砲の Grand maître(1694) 。王位継承者にも選ばれた(1714)。
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アンヴァリッド Hôtel des Invalides 正門の鉄柵とゲート。
門扉の頭部には三つの百合の花のシールドを中心に置いたフランス王の紋章が置かれている。二重のネックレスの外側のメダリオンにある<マルタの十字>がはっきり見える。
ドーム Le dôme de Saint-Louis-des-Invalides の先端が顔を覗かせている。
アンヴァリッドは廃兵院と言い、ルイ14世が傷病兵のためにリベラル・ブリュアン Libéral Bruand (vers 1636-97) の設計で建設したもの (1674) 。古典主義様式。
裏正面のドーム (アルドゥアン・マンサール Jules Hardouin-Mansart (1646-1708) 作 ) はサン・ルイ (ルイ9世) の遺体安置のために建設された。工事を視察するルイ14世の一行を描いた写実絵が<カルナヴァレ美術館>にある。バロック様式。
* * *
明日は、ルイ14世の用いた王の紋章をもっとはっきり見てみよう。
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パレ・ド・トウキョウ Palais de Tokyo の列柱の間にエッフェル塔 Tour de Eiffel 。セーヌ川に面する正面から見て左ウイングが右に見えている。<パリ市立近代美術館 Musée d’Art Moderne de la Ville de Paris >は左側の右ウイングに入っているので見えていない。
槍先の出ているのがブールデルの作品 < Monument La France (1922) >で、下の写真で中央に配されているものだ。
戦争の女神アテナでフランスを表し、右側に盾を左側に知恵の蛇を置き、右手に平和を表すオリーブを巻いた槍を持たせ、左手でアメリカの援軍 (参戦) を遠望する様を表現している。
建築様式はアール・デコ Art déco 。近代美術宮殿 Palais des Musées d’art moderne (1937)。モニュメント (第一次大戦) の下の壁には自由フランス軍 (第二次大戦) の慰霊板。
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共和国防衛隊 Garde républicaine の展示室を見学した (毎月第一木曜日入館可) 。
国連平和軍兵士 Soldats de la Paix のメモリアル展示。子供心に懐かしい米軍のミリタリー・ポリス MP のヘルメットも。
Garde républicaine は国家憲兵隊 Gendarmerie nationale に属し、エリゼ宮などを警備している騎兵連隊や鼓笛隊などを擁して、陸・海・空軍と並ぶ第 4の軍隊だ。バスチーユ広場からアンリ4世大通りを程なく、一際立派な建物に参謀本部がある。
展示室入り口正面にある紋章。
パリ市章<揺蕩えども沈まず FLVCTVAT NEC MERGITVL>の代わりに<共和国防衛隊の軍団 Légion de la Garde républicaine >とあり、左にオリーブ・右にオークになっている。
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スコットランドの女王メアリー Marie Stuart (1542-87) はドファンで後のフランス王フランソワ2世 (1559年から1560年) と1558年に結婚したので、短い期間であったがフランスの王妃だった。
<カルナヴァレ美術館 Musée Carnavalet >にある左の絵は1561年に フランソワ・クルエ François Clouet (avant 1522-72) によって描かれた喪に服すメアリーだ (左の絵) 。
メアリーは0歳の時からスコットランドの女王だったが、幼少期をフランス / アンボワーズ城で過ごしていた (1548-61) 。
夫の死後スコットランドに戻り、彼女は波乱の治世を楽しむことになるのだが、最後は投獄され、彼女の従姉妹にあたるイングランドのエリザベス女王の命令で斬首された。
カソリックとプロテスタントのこともあり、イングランド王の継承権を巡るエリザベス1世との確執は映画やドラマの格好の題材になっている。
スコットランドでの再婚で生まれる長男の名付け親は他でもないエリザベス1世であり、結婚せず子供のいなかったエリザベス1世の死後、メアリの廃位に伴いスコットランド王ジェームス6世 (1567-1625) となっていた長男がイングランド王ジェームス1世 (1603-25) となるのだ。
エディンバラの<スコティッシュ・ナショナル・ポートレイト・ギャラリー Scottish National Portrait Gallery>にそっくりの絵がある。説明には「おそらく19世紀に模写されたものだろう。」と書かれている (右の絵) 。
白の喪服 En Deuil Blanc (1560) 作者不詳 とあり、1887年に購入している。
メアリー・ステュアート Mary Stuartの肖像<Mary, Queen of Scots (1610-15 頃)>も観れる。
処刑の場面を描いた絵としては、スコットランド女王・メアリーの処刑 Execution of Mary,Queen of Scots (1867) という絵がグラスゴーの <ケルヴィングローブ美術館及び博物館 Kelvingrove Art Gallery and Museum >にある。Robert Herdman (1829-88) の作だ (下の絵) 。
「スコットランド女王・メアリーの生涯の悲劇的なロマンスがヴィクトリア朝の画家 Robert Herdman を感動させこの絵を描かせた。彼女は聖徒らしい姿で描かれている。彼女の赤い血の付いたペチコートはカソリックの信仰に対する彼女の献身をシンボライズしている。」と、説明にあった。
<エディンバラ城 Edinburgh Castle >では、旧王の間 The ancient Crown Room に1543年の Mary Queen Scots の戴冠に用いられた王冠、笏、剣が展示されている。
また、クイン・メリーの間 Queen Mary’ Chamber には「1566年6月19日にここで Mary Queen Scots は唯一人の息子、ジェームス王子に生を与えた。赤ん坊は一年後にスコットランド王に、1603年にはイングランド王にもなった。」と書かれている。
<ホリールード宮殿 Palace of Holyroodhouse >ではメアリー女王の謁見の間と寝室を見れる。天井にはフランスの王妃になったのを記念して1559年に作ったとされるモノグラム / 紋章 MR が刻まれている。
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<ロマン派美術館 Musée de la Vie Romantique>のジョルジュ・サンド George Sand (1804-1876) の坐像。オペラ座の天蓋中央の<詩と音楽の神アポロン>の作者 Aimé Millet (1819-91) の作品。
ピガール広場東のロシュシュアール近くにはドラクロワやプレイエルなどショパンやサンド夫人と親しい面々が居を構えていた。ロマン派美術館は広場の南西のほど近くにある。
1942-47 までは、ショパンとサンド夫人は少し南の Le square d’Orléans に住んでいた。
ドラクロワは近所のノートル・ダム・ド・ロレット通り Rue Notre-Dame-de-Lorette で 1844-1857年を過ごした。ルーベンスに傾倒し、ロマン派と呼ばれることをことのほか嫌ったという。
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ノートルダム寺院のジャンヌ・ダルク Sainte Jeanne d’Arc (1412-31)。
ジャンヌ・ダルク の再評価を決定したのはノートルダム寺院/パリであり、列福した (1909) のはノートルダム寺院だった。列聖はバチカンのサン・ピエトロ寺院 (1920) 。
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ノートルダム大聖堂 Cathédrale Notre-Dame de Paris は
1163年に建造が開始されて以来850年を経過した。
寺院前の パルヴィス・ノートル・ダム広場 には特設の観覧席が設けられている。
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アジサイ Hydrangea macrophylla の季節も終わりに近づきました。
四国中央市では「新宮あじさいの里」に出かける人が多いようですが、<新宮あじさいまつり>は6月30日(日) で終了しました。
写真はケルト文化の色濃いカンペール Quimper から1時間ほどのゴーギャン所縁のポンタヴァン Pont- Aven のアジサイです。
清流 ( ヴァン川 La Aven ) に枝垂れ柳と紫陽花、まるで日本の風景のようです。ポール・ゴーギャン Paul Gauguin (1848-1903) はこんなところに惹かれたのかもしれません。
2008.07.31.
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フランスの博物学者であり比較解剖学者 (元祖) であった ジョルジュ・キュヴィェ Georges Cuvier (1769-1832) に捧げられたフォンテーヌ・キュヴィエ La fontaine Cuvier は植物園正門の反対側の北詰の角にある。
写真手前を入った植物園の中にある< 国立自然史博物館 Muséum national d’Histoire naturelle >の教授、館長 directeur などを務めた。
噴水は下段にあり、上部がキュヴィエの記念碑、右下に見えるスタルクによるデザインのフォンテーヌ・キュヴィエの案内板にはキュヴィエの功績が記されている。
Jean-Jacques Feuchère (1807-52) の作品 (1846) 。 ブルボン宮広場 Place du Palais-Bourbon のモニュメント 法 La Loi (1852) の作者。Alphonse Vigoureux (1802-54) による建築。
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改装なったオルセー美術館 Musée d’Orsay のアール・ヌーヴォー部門にオルタ Victor Horta のコーナーができたのは既に紹介した。これはその一角の展示。見ているだけで気持ちが和む。
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1940年6月4日の英国下院での有名な演説の一節<我々は降伏しない We shall never surrender > を刻んだチャーチル首相の立像 Statue de Winston Churchill 。
Jean Cardot’s (1930-) の作品 (1998) 。
ベネルックス3国を経てフランス北部からのドイツ軍の電撃侵攻を受けてパリを放棄したのが6月10日、ドイツ軍のパリ無血入城を許し (6月14日) 、6月21日には休戦 (降伏) 協定を結んだ。シャルル・ド・ゴール将軍がイギリスに亡命してレジスタンスを呼びかける歴史的演説をしたのが6月18日だ。
像の手前にW.チャーチル大通りがあり、右手がアレクサンドル3世橋、左にシャンゼリゼ大通り。背後の建物が<プチ・パレ>。3月末なのに冬景色のように見える。
目と鼻の先クレマンソー広場にある
<シャルル・ド・ゴール将軍の立像>も彼の作品 (2000) だ。
surrender は古フランス語に由来するが、その他は古アングロサクソン語で綴られた演説としても知られる。
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マリー・レクザンスカ/ レジェスカ Marie Leszczyńska (1703-68) は ルイ15世の王妃。ルイ16世、ルイ18世、シャルル10世の母。
ナンシーのスタニスラス広場にポーランド王でありロレーヌ公爵であった父親の スタニスラス・レジェスカ (1677-1766) の立像がある。
この絵は、マリー王妃の戴冠式の衣装を身に着けていて右手で指しているのが紺地に金の百合の花が付いた王妃の冠。纏っているローブも百合の花で飾られている。メルキュールの間 Salon de Mercure にある ルイ・トッケ Louis Tocqué (1696-1772) の作品<Portrait de Marie Leszczyńska (1740) >。
右の置時計の頂部にも中央左右に三つの百合の花が乗っている。
ポーランド継承戦争などフランスとポーランドの関係は深い。
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国王の大居室は王の権威を見せつける豪華絢爛の装飾が施され、しかも、誰でも立ち入りが自由であったと案内をお願いしたフランス人の女性ガイドさんが説明してくれた。
その最初、< エルキュールの間 / ヘラクレスの間 Salon d’Hercule >の様子。
掲げてある絵はイタリアの画家 ヴェロネーゼ Paul Véronèse (1528-88) の作品 <Rebecca et Éliézer (1550-80)> 。ルーブル美術館にある<カナの婚礼 Les Noces de Cana >の作者。
絵の額縁上部にアポロンと左右の端に アカンサスの葉 Feuille d’acanthe 。
暖炉の上に渦巻き状に (ヴォリュート Volute ) した アカンサスの葉で飾った ヘラクレス / エルキュール Hercule の顔。そして左右出入口アーチには王冠とモノグラム Monogramme LL 。
天井画は古典主義の画家 フランソワ・ルモワーヌ François Lemoyne (1688-1737) の作品、 <ヘラクレスの神格化 L’Apothéose d’Hercule (1733-36) >。
ヴェロネーゼの<シモン家の宴 Le Repas chez Simon le Pharisien (1576)>
という大作もこの部屋にある。
エルキュールはローマ神話で、ギリシャ神話の英雄ヘラクレスに相当する。
<栄光の間>を寓意している。
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ナポレオン1世が焼失した穀物取引所を再建した (1811) が1854年に再び火災に遭い、1889年に再建された。現在は商品取引は行われておらず、パリ商工会議所 Chambre de commerce et d’industrie de Paris が使用している。
アンリ·ブロンデル Henri Blondel (1821-97) の建築 (1889) 。
この場所は、過って、カトリーヌ・ド・メディシス Catherine de Médicis (1519-89) の屋敷 Hôtel de Soissons があったところ。
円天井 Coupole 内部は 5大陸の大陸間貿易を 4部門に分けてフレスコ画で飾られている。
写真上段の左側がヨーロッパ、右側がアジア・アフリカ。写っていない左にロシア、右にアメリカが描かれていて全体として円形になっている。下段の写真と合わせてイメージできれば・・
<サラ・ベルナールの肖像画 (1876) >を描いた Georges Clairin (1843-1919) がアジア・アフリカ部分を担当した。 サラ・ベルナール Sarah Bernhardt
メトロ 1号線 ルーヴル・リヴォリ Louvre Rivol下車、ルーヴル通り Rue du Louvre を北へ、右側。
* コロナ禍の中、美術館として再生しました。フレスコ画はそのままのようですが、下方は新しいコンクリート壁で隠されたようで、このような写真はもはや撮れません。2021.05.23.
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旧証券取引所 Bourse はアレクサンドル・ブロンニャール Alexandre Brongniart (1739-1813) がナポレオン1世の命を受けて建築した (1807) 。
コリント式 / パンテオン神殿のギリシャ様式の建築。
ナポレオンとフランスの栄光とともに取引が活発化し、その対応として商法の改正や証券取引所の建設などがおこなわれた (1807) 。
商事裁判所 は1865年にシテ島 Tribunal de Commerce に移されるまでここにあった。
正面左の坐像は<領事の正義 Justice Consulaire >という フランシス・デュレ Francisque Duret (1804-65) の作品 (1852) 。商法に右肘をつき、左手には畳まれた天秤を持っている。
両替でお勧めの<メルソン Melson >は手前のヴィヴィエンヌ通り Rue Vivienne 左へ直ぐ。
メトロ 3号線 ブルス Bourse 下車。
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フォート・ヌフ・ド・ヴァンセンヌ Fort Nuef de Vincennes 兵舎の鉄柵。
中が見えないように裏張りされている。
第二次世界大戦の最中の1943年に編成され、ルクレール将軍が率いたことで世界に知られる<(旧) 第二機甲師団 ((現) 第二機甲旅団) が用いたフランス国土にダブル十字>に加えて2e RCSと頭部に鷲。ダブル十字はジャンヌ・ダルクの「ロレーヌの十字」。
右はフランス陸軍 Armée de terre の紋章。
フォート・ヌフ・ド・ヴァンセンヌ は シャトウ・ド・ヴァンセンヌを含めて国防省の所有で、陸・海・空の文書保存等に使用されていて、王の宮殿は<軍事博物館>となっている。
元々あったヴァンセンヌ城を中心とするこのフォート・ヌフ・ド・ヴァンセンヌは、
首都防衛のため1841年から44年にかけてパリ東部に建設したティエールの壁 ( 17要塞 ) の一つでもある。
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オルセー美術館の西側、セーヌ川下流側に隣接する レジョン・ドヌール宮殿 Palais de la légion d’honneur (旧名 Hôtel de Salm) 正門の鉄柵。
ピエール・ルソー Pierre Rousseau (1751-1829) による新古典主義の作品 (1782-87) 。
凱旋門風の入口上部左右には、<名声 renommée を寓意>する2本のトランペット trompette を持つ女神 ファマ Fama (ローマ神話) が王の名声を吹聴している。
また、月桂樹 laurier の花輪 (冠) は<栄光を寓意>する。
鉄柵の頭部は トライデント trident 風になっていて房が付いている。
なお、写真右手オルセー美術館に面して<レジョン・ドヌール博物館>の入り口がある。「レジョン・ドヌール勲章」はナポレオン・ボナパルトが創設した。
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ミシア・セール Misia Sert (1872-1950) はピアニストであり、多数の画家や詩人の助言者 Égérie であり、20世紀初頭のミュージシャンだったとされ、パリの女王 Reine de Paris と呼ばれた。
19世紀末から20世紀初頭のパリの美術・文芸活動をリードした (1880-1903) 文芸誌 La revue blanche の創業者の一人タデウシュナタンソン Thadée Natanson (1868-1951) の妻だった。
Toulouse-Lautrec (1864-1901) の< La revue blanche (1895) > は、この文芸誌のためのポスター (リトグラフ) を彼女をモデルにして描いたものだ。
ココ・シャネル Coco Chanel (1883-1971) が唯一信頼した女性とかでも大変有名なその時代のミューズだそうです。
エーゲリア Égérie (ミューズ) はローマ神話の泉のニンフ (女神) で、女性の助言者を比喩する。ミューズはギリシャ神話の音楽・文芸の女神。
ギャラリー・イグレック所蔵。
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パリはまだ寒いものの、週末は天気もよくすこし春めいてきたような気がします。
先日「ミシア・セールを題材にした舞台」をみてきました。
このミシア・セール、知る人ぞ知る、という人物かもしれませんが、
実はロートレックと深い関係があるのです。
ロートレックが好きな方ならご存知の有名なポスターの一枚、
La revue blancheのモデルにもなっている女性です。
ロートレック以外でもベル・エポック時代のミューズとして
さまざまな画家のモデルにもなっています。
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ミレー Jean-François Millet (1814-75) の絵画と言えば<種をまく人 (1850) ><落穂拾い (1857) ><晩鐘 (1857-59) >など農作業をテーマにした作品を思い浮かべるが、
< La Becquée (1860) >も好い。
Becquée とは親鳥が嘴に含んで運ぶ一回分の餌のことで、母親が3人の子供たちにあたかも親鳥のように食事を与えているほのぼのとした情景を言いえて妙だ。日本では<子供に食べさせる母親>として紹介されているのだがいかにも味気ない。この作品は男の労働の威厳を表現したものとされる。子供たちは3人とも女の子にみえる。
リール美術館 Palais des Beaux Arts de Lille で見れる。
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チュイルリー公園 Jardin des Tuileries からのエッフェル塔 Tour Eiffel 。
エッフェル塔の下にある彫像は< 弟のアベルを殺したカインCaïn venant de tuer son frère Abel >という アンリ·ヴィダル Henri Vidal (1864-1918) による大理石の作品 (1896)。
カインとアベルはアダムとイヴの息子。
カインはうそをついた、また、人を殺した最初の人間。
<アベルを殺すカイン>という ルーベンス Peter Paul Rubens (1577-1640) の絵画 (1608-09) が ロンドンのコートールド・ギャラリーにある。
ピエトロ・ノヴェリの<アベルを殺すカイン>は
スコットランド/エディンバラの< National Galleries of Scotland >にある。
是非訪れて、観たいと思っているアベルの死を嘆くアダムとイヴを表現した<最初の喪 Premier deuil (1888)>と題する ウィリアム・ブーグロー William Bouguereau (1825-1905)の作品はブエノスアイレスにある。
ウィリアム・ブーグロー は、フランス西部ナントとボルドーの中間、大西洋に面する港湾都市であり漁港でありヴァカンス地としても名の通る ラ・ロシェル の出身。
韓国ドラマ<カインとアベル>を視た人は多いだろう。
* * *
元大映のスター 本郷 功次郎 死去。
「誰よりも誰よりも君を愛す (1961) 」公開後間もない頃、北大を訪問した際に札幌すすきののクラブで偶然出会う機会があった学生時代を思い出す。
(「誰よりも君を愛す」は松尾和子・和田弘とマヒナスターズが歌った。)
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ベルサイユ宮殿 Château de Versailles の<戦争の間 Salon de la Guerre > を飾る アントワーヌ·コワズヴォ Antoine Coysevox (1640-1720) の彫刻。
Louis XIV en empereur romain vainqueur という大理石に浮き彫りしたルイ14世の騎馬像だ。
1678年にオランダを破りナイメ―ヘンに平和をもたらした絶頂期を表現したもの。
上部では<名声を寓意>する 2本のトランペット trompette を持つ女神 ファマ Fama (ローマ神話) が王の名声を吹聴している。
下部では<祝福して物語るを寓意する>銘板とペンを持つ女神 クリオ Clio (ギリシャ神話) が王の戦歴を書き留めている。
ギャラリー・イグレックからのお知らせ:2月の営業は終了しました。3月は3月1日から10日です。
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ラ・ロシェルの包囲戦 Siège de La Rochelle (1627-28) の勝利 (カソリックの勝利) を記念して建てられたバロック様式の教会 (1629-1740) で見ごたえがある。
隣接してヴィクトワール広場 (1685) がある。
アンリ4世 (1589-1610) の息子でルイ14世 (1643-1715) の父である、ルイ13世 (1610-43) (カソリック) がユグノーとこれを支援したイングランド軍 (プロテスタント) をラ・ロシェルに包囲して勝利した戦い。
ルイ13世の騎馬像はヴォ―ジュ広場にある。
内陣はカール·ファン·ルー Carle van Loo/Louis-Michel van Loo (1707–1771) による7枚の祭壇画で飾られている。ルーブル美術館に<アンキセスを運ぶアイネイアス Énée portant Anchise (1729) >がある。
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史上初の6冠 (そして2人目のグランドスラム達成) を目指して張栩棋聖と棋聖戦7番勝負を戦っている今が旬の井山本因坊・天元・王座・碁聖・十段の3連勝はなりませんでした。
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<草上の昼食 >や<オランピア Olympia 1863>や<フォリー・ベルジェールのバー>で有名なフランス印象派の先駆け エドゥアール・マネ Édouard Manet (1832-83) は181年前の今日生まれた。
オルセー美術館の<草上の昼食 Le Déjeuner sur l’herbe 1862-63>
コートールド・ギャラリーの
<フォリー・ベルジェールのバー Un bar aux Folies Bergère 1883>
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日本のノーベル賞受賞第一号、理論物理学の湯川秀樹 (1907-81) も1月23日だ。受賞直後に刊行された子供向け伝記<湯川秀樹>を父親が買ってきて読まされたことを覚えている。
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オーギュスト・ロダンの弟子で、ロダンとの愛憎でも知られる
彫刻家の カミーユ・クローデル Camille Claudel (1864-1943) の作品。< L’Âge Mûr (成熟した年齢) > と題された1897年作製のブロンズの作品。オルセー美術館にある。
オデオン座とリュクサンブール公園との間の広場に名を残す
ポール・クローデル (1868-1955) は彼女の弟で、駐日大使を務めたこともあるフランスの外交官であり、かつ、劇作家でもあった。 ポール・クローデル広場