depuis 2001
サン・ジャック通りとサン・マルタン通りを結ぶシテ通り(古代のパリ南北軸) がセーヌ右派流を渡河するノートルダム橋 Pont Notre-Dame の街燈。手前がシテ島。
オスマンによるパリ改造で改築された石造りの5連アーチ (1853) の内残された両サイドの石造りアーチの部分で、現橋は3連アーチ (1912) 。街燈も当時のものかと思われる。
![réverbère / Pont Notre-Dame](https://galeriey2.wordpress.com/wp-content/uploads/2015/08/7121.jpg?w=636)
depuis 2001
クリシー広場 Place de Clichy 、ブランシュ広場 Place Blanche に程近くブラッセル通り等7本の道路が集まる円形ロータリー アドルフマックス広場 Place Adolphe-Max のモニュメントはエクトル・ベルリオーズ Hector Berlioz (1805-69) の彫像 (1946) だ。
ベルリオーズは後に結婚することになるハリエット・スミスソンへの恋情を<幻想交響曲 (1830) >として作曲したフランス・ロマン派の作曲家、指揮者。
広場はベルリオーズ公園になっていて、彫像はドイツ占領下で溶融されたブロンズ像に替えて Georges Saupique (1889-1961) が石造として制作したもの。
アドルフマックスは1次大戦ドイツ占領下での執務を拒否したブラッセル市長 (1909-39) で、ベルギーの英雄。
depuis 2001
サン・ミッシェル広場 Place Saint-Michel のノートル・ダム寺院側 (東側) 、サン=セヴラン通り20番地の<ル・ヴァン Le Vingt (20番地)>。
この界隈はケバブの店を中心に5€~10€の店が密集していて、観光客人気のスポットだ。
サン=ジャック通りに面するサン=セヴラン教会 Église Saint-Séverin が目の前のこの10.99€ で「アントレ+プラット+デザート」を試せる。
この辺りでは高額とあって収容力があるにも拘らず客は2組しか居なかったが、道際の席に座った後次々と客が集まり満席になってしまった。
福の神と見做されたのか、サービス満点だった。
depuis 2001
ナポレオン1世のロシア遠征の敗戦で勢いづいた同盟軍は北方からパリに進攻、パリ東方の要衝ヴァンセンヌ城を担当していたドメニル将軍 Pierre Daumesnil (1776-1832) はオーストリア・ロシア・プロイセン同盟軍の開城要求を拒否 (フォート・ド・ヴァンセンヌの防衛) 、ルイ18世の開城命令で開城した (1814) 。
ワグラムの戦い (1809) で義足になっていた彼の愛称は<木製の脚 Jambe de bois>で、
開城要求に際して「この脚を元に戻してくれたら要求を呑もう Quand vous me rendrez ma jambe, je vous rendrai ma place !」と言い放った英雄だ。
背景はヴァンセンヌ市庁舎、彼の視線はヴァンセンヌ城 Château de Vincennes に、
右手は前に出した木の脚を指している。雲に秋の兆しが・・
depuis 2001
イル・ド・フランス最東部の町、ラ・フェルテ= ゴシェ La Ferté-Gaucher 入り口の風景。セーヌの右支流マルヌ川にモー Meaux の下流で合流するグラン・モラン川 Le Grand Morin を渡って市内に入るところで、一方通行 (パリ道) になっている。
左の出口に Office de Tourisme がある。たまたま職員の人と出くわして案内図をもらえたが、バカンスの真っ盛りで閉鎖中、街中に人影は疎らだった。
真南に中世の町プロヴァン Provins が位置する。
東駅 Gare de l’Est から SNCF P 線の終点クロミエ Coulommiers で下車。BUS 17 の終着。帰りは BUS 17 で RER A4 線の終点 Marne-la-Vallée- Chessy (Parcs Disneyland) に出た。
depuis 2001
5年余りの間行われてきたヴァンセンヌの市街地改造が概成した。
車道を狭めて歩道を拡幅し、車道は石畳、歩道はタイル舗装。境界はバリアフリー。沿道の店舗を含む建物は時期をずらしつつ一斉にリニューアル。日本でできない理由?
写真は東西軸ミディ通り Rue du Midi で、突き当りがRER A線のヴァンセンヌ Vincennes 駅。地下にA線が走る。南北軸はMacの位置にあるシャトー大通り Avenue du Château で、左にヴァンセンヌ城、バスはこの中央通りを走る。
交差する南北道路の左側がメトロ1号線シャトー・ド・ヴァンセンヌ Château de Vincennes 。右側の教会前広場は過ってあったフランスで唯一の霊柩車トラム (1912-34) の駅跡だ。
角の<Le Verger du Château 城の果樹園>は御用達の八百屋さん。
ヴァカンス閉店が始って人影も少ない。 2015.08.07.
depuis 2001
オーヴェル=シュル=オワーズ Auvers-sur-Oise のオフィス・ド・ツーリズム (写真の左) 前のゴッホ公園に置かれているファン・ゴッホ像。
エコール・ド・パリの彫刻家オシップ・ザッキン Ossip Zadkine (1890-1967) の作品<ヴァン・ゴッホに献ぐ (1961) >。
Vincent van Gogh (1853-90) の亡くなった年に生まれた彼が持っていたゴッホのイメージかと。ザッキンには珍しい写実的作品。
4度目の訪問だが、オフィス・ド・ツーリズムは最近村役場からこちらに越したようだ。
ゴッホ終焉のAuberge Ravoux (Maison de Van Goch) にも入りづらくなった。教会も綺麗になった。
depuis 2001
マリー・ド・メディチ随行のイタリアの銀行家Zenoby によって
ルイ13世様式で建造された (1635) オーヴェル城 Château d’Auvers 。
オーヴェル・シュル・オワーズ Auvers-sur-Oise は<ヴィンセント・ファン・ゴッホ Vincent Van Goch (1853-90) 終焉の地>として有名。20Mai 1890-29Juillet 1890 の最後の2ヶ月余りを過ごした。<日没のオーヴェル城 Le château d’Auvers au coucher du soleil (1890) >ほか70点を超える絵を描いた。
RER A線 Gare de Lyon でメトロ14号線に乗り換え St-Lazare へ。SNCF(L) Pontoise で Creil 行き(H)に乗り換えて Auvers-sur-Oise 下車。
帰りは、H線 Creil 行きで Persan -Beaumont 迄行って Paris Gare du Nord 行きに乗り換え、Bus46 、124を使った。
10287
depuis 2001
イル・ド・フランスで最も美しい村という記事を見てラ・ロシュ=ギヨンの町に行ってみた。
北方の見張り台だった円柱のドンジョン (1190) の崖下にラ・ロシュ=ギヨン城 Château de la Roche-Guyon がセーヌ川に面してある。
現在はセーヌとの間はフランス式庭園(植物園)になっている。
門扉にはラ・ロシュフコー家 Maison de La Rochefoucauld の宝冠と紋章。
ボルドーに近いシャラントに起源をもつ11世紀以来のフランスの貴族で宝冠は公爵のもの。
サン・ラザールからイル・ド・フランス L線 で Mantes la-Jolie 下車。
TIM Bus 95-11 (12:07発)で la Roche-Guyon Mairie(12:43)で下車。
帰りは 14:59 しかなく、2時間余りの観光になる。
11937
depuis 2001
1878パリ万博のために建造された<トロカデロ宮殿 Palais du Trocadéro>を飾った4動物 (犀・像・馬・牛) の内、前3者はオルセー美術館の前庭に移された。が、牛はニーム Nimes の強い要望でニームのジャン・ジョレス大通り Avenue Jean-Jaurès に置かれている。
宮殿が1937パリ万博により取り壊され、現シャイヨー宮に建替えられたのに伴う。
写真はモンペリエからパリリヨンへ向う TGV の車窓から撮ったものだが、大通りの分離帯公園の台座の上に彫像の上部が見えているのがお判かりだろうか? 2015.07.20.
「ニームはデニム発祥の地」であり、デニムはサン・フランシスコでフィッシャーマンの帆や服に使用されるようになり、やがてジーンズへと繋がってゆく。
depuis 2001
ローヌ川 Le Rhône の大デルタの右岸側端一帯に連坦する海水浴場の一つ <カルノン Carnon 海水浴場>から地中海 Mer Méditerranée を望む。2015.07.19.
砂浜は左右に延々と続く大砂洲 (砂丘) の一部で、
写真のずっと後方に巨大な入海 étang が在る。
美食の町、医学の町として知られるモンペリエ Montpellier からトラムウェイ L3 の終点 Pérois Étang de l’Or で Bus 131 に乗り換えて終点で下車、地中海は目の前だ。
depuis 2001
トゥールーズ Toulouse にあるオーギュスタン美術館 Musée des Augustins で、ロートレック Henri de Toulouse-Lautrec (1864-1901) の<束の間の征服 Conquête de passage (1896)>等を鑑賞した。別名<コルセットを着ける女>の方が分かりやすい。
キャンバスに張った Marouflé の紙に黒チョークとオイルで描いたチョーク画。
トゥールーズ・ロートレック伯爵アルフォンスが寄贈した(1904)もの。
depuis 2001
要塞として建てられた (13世紀) サント・セシル大聖堂 の司教の宮殿 Palais de la Berbie からのタルン川の風景。ガロンヌ川の右支流タルン川 (左が下流) 。
Pont-Vieux の上流に斜め堰があり、位置のエネルギーを利用して、(右岸沿いの水路を通って) 橋右岸下流に接続した建物内で粉引き等をしてから川に戻していた。
バルコニーの下に見えているのが司教の庭園 Jardin du Palais で、宮殿外の崖河岸も緑地・遊歩道になっている。マドレーヌ教会 Église de la Madeleine もみえる。
depuis 2001
宮殿に収容されている美術館内部は赤レンガ造りのアーチ群で修復されている (2012) 。
前回訪れたとき (2000) の面影が探せない。
タルン川 Le Tarn を臨むバルコニー手前の近代的展示室。
奥に2点、Reine de Joie (1892) 、右に2点、La revue blanche (1895) の
ポスターと習作が並べて展示されている。
La revue blanche の習作のタデウシュナタンソン Thadée Natanson 夫人の顔が気に入った。
ギャラリー・イグレックではこれらのリトグラフを所蔵している。
depuis 2001
トゥールーズ・ロートレック Toulouse-Lautrec (1864-1901) の生まれ故郷アルビ Albi へ向うため、Taxi でトゥールーズ・マタビオ駅 Gare de Toulouse Matabiau (1905) へ。アルビヘは1時間ほどだ。
15分遅れている時計の下にミディ鉄道 Chemins de fer du midi とあり、その下の左にボルドー右にトゥールーズの市章が嵌め込まれている。ボルドーはガロンヌ川の河口だ。
大運河のミディ運河に依存していたため、鉄道の開業は遅れた (1857) 。
手前に植木鉢と灰皿。
depuis 2001
アドリアン・デュブーシェ (1818-81) のコレクションと買い付けにより11,000点を超える世界の磁器を所蔵する<アドリアン・デュブーシェ国立磁器博物館 Musée national de la porcelaine Adrien-Dubouché (1845)>の正面中央。折衷主義の建築様式だ (1900) 。
併設されていた装飾美術学校 (1868-2011) の名残が門扉の Ecole Musee に窺える。入り口は右側奥に改装されていて、展示品は全てガラスケースに収納されている。
depuis 2001
「レジオン・ドヌール宮殿」とも呼ばれるサムル館 Hôtel de Salm 。
アナトール・フランス河岸 Quai Anatole France に面した木柵が透明板に置き換えられた。バス停等に強化ガラスが多用されているが、柵に使用したのは珍しい。
左の建物はオルセー美術館 (MO) 。パリ・オルレアン鉄道の駅舎が置かれる前にはナポレオン1世が外務省を収容しようとしたオルセー宮殿 Palais d’Orsay (1810-71) があった。
明日の革命記念日はリモージュで迎えます。
ツール・ド・フランスはツールーズで観戦します。
depuis 2001
シャン・ド・マルス公園 Parc du Champ de Mars の ジャック・リュフ広場 Place Jacques Rueff から、夏の夕暮れのエッフェル塔。
7月14日 革命記念日行事のための準備が行われている様子と、金曜日とあって夕涼みを兼ねて酒盛り・談笑に興じるグループやアヴェックが芝生を埋めている様が窺える。
写真は午後10時12分撮影で、エッフェル塔のやや左側に太陽が沈んだところ。
バス 56、69 で Champ de Mars へ、帰りはバス 42とメトロ 1号線を使った。2015.07.10.
保険の目途がたちました。
depuis 2001
東西のローマ帝国を統一し、キリスト教を公認し、帝都をコンスタンティノポリスに遷都したコンスタンティヌス1世 (在位 : 306-37) が<ラバルム Labarum>をローマ正規軍の紋章として定めた。
ギリシャ文字でのキリスト Χριστος の最初の2文字の組み合わせ XP (キー・ロー) だ。
それ以前から、XP はキリストを象徴するモノグラムとされてきた。
教会の塔の最上部に見れる。
この日 (2015.07.05.) 教会前のサン・シュルピス広場では<陶器市>が開かれていて盛況だった。
depuis 2001
マティニョン大通り Avenue Matignon の Galerie Maurice Garnier。
モーリス・ガルニエは長らくビュフェ Bernard Buffet (1928-99) の作品を一手に扱ってきたことで有名。ビュフェはこの作品制作の年 1971 にレジオン・ドヌール勲章を受章した。
この日はもう一枚、鵜が飾られていた。2015.01.27.
7月からの渡仏に先立ち家電量販店に行ったところ、中国シフト振りに驚いた。
ターゲットは観光客になっている。
depuis 2001
ブロア通り Rue du Bouloi からジャン=ジャック・ルソー通り Rue Jean-Jacques Rousseau に抜けるパッサージュ <ギャルリー・ヴェロ=ドダ Galerie Véro-Dodat (1826) >の入り口。
左の壁龕 (へきがん) にはエルメス Hèrmes の彫像、翼を付けたヘルメットを被りカドケウスを右手に持つ商人の神。
右のそれにはギリシャの彫刻家プラクシテレスに倣った「休息するサテュロス Satyre」が置かれ、尖った耳を持ち豹の皮を肩から腰に纏っている。
壁龕とは彫像等を置く壁のくぼみのこと。
エルメスとサテュロスはギリシャ神話の神と精霊。
depuis 2001
<賀茂御祖 (かもみおや) 神社 (下鴨神社) >は山城国の一宮で、<賀茂別雷 (かもわけいかづち) 神社 (上賀茂神社) >とともに賀茂氏の氏神を祭る神社。
祭神 賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと) は京都の守護神だ。
賀茂建角身命が金鵄八咫烏 (きんしやたからす) に化身して神武天皇東征の道案内をしたと伝えられる。
賀茂氏は神紋が八咫烏である熊野本宮大社の熊野国造家同様出雲族だが、本貫は縄文・飛騨系とみている。
神紋は双葉葵、葵(賀茂) 祭りは賀茂神社のお祭りだ。
えんむすびの神<相生社>は若い女性に人気。
賀茂建角身命は八咫烏の称号を与えられ、天神地祇の統合 (神武天皇の誕生) に重要な役割を果たしたと思われる謎に満ちた人物。賀茂神社は父 (賀茂建角身命) 、娘 (玉依媛命) 、孫 (賀茂別雷命) を祭る。鴨氏は縄文・飛騨系とする説をとる。
賀茂別雷命は玉依媛命とニギハヤヒの子である大山咋命 (事代主命) との間の子。松尾神社の祭神は大山咋命、神紋は図案は異なるものの双葉葵だ。
* * *
Pinot Noir / Les Titans (スイスの Provins Valais 醸造)2010 を Piaget から頂きました。
営業・贈答用に使っているようです。
depuis 2001
現在井山本因坊が山下9段の挑戦を受け対戦中だ。
本因坊は江戸時代に成立した囲碁の家元4家 (本因坊、井上、安井、林) の一つで、初代の頭領 算砂が住んでいた京都 寂光寺の塔頭 (たっちゅう) の名。
4世本因坊道策から21世本因坊秀哉の墓が
本妙寺 (1910より巣鴨の現在地) にある (3世までは京都) 。
1世本因坊算砂 (さんさ) は「名人・本因坊」に叙せられ、江戸幕府から初代の「碁所(ごどころ)」に任ぜられた (1603) 。碁所は江戸城で将軍の御前で対局する「御城碁」の棋士の手合いを差配する等最高の地位を保障された棋士のこと。
なお、2世名人は井上家が出している。
本因坊の名跡を日本棋院に譲った(1940) 21世本因坊秀哉の命日 (1月18日) には<秀哉忌>が行われ、時の本因坊が祭主を務める。今年も井山裕太本因坊が務めたわけだ。
碁所を務めたのは
一番左の12世丈和、秀哉の後ろの4世道策、5世道知、右から2番目の9世察元。
14世跡目秀策 (道知と同じ墓標) は井上幻庵因碩も認めた (耳赤の一局) 碁豪で、道策 (前聖) 、丈和 (後聖) と並び称される棋士だったが跡を継ぐことなくコレラにより34歳で死亡した。本殿は工事中。2015.03.12.
depuis 2001
京都に行けば立ち寄る<和久傳>。京都駅ビル。
ちょっと古いが、写真が見つかったので紹介してみた。2014.03.23.
この時は京都の街並みと北山を眺めながら・・・
まだ5か月を残していたのだが、都合で、パスポートの更新手続きをしに都庁まで散歩をしてきた。
depuis 2001
観音寺殿、観音寺城、観音寺村、観音寺町、観音寺 (かんおんじ) 市に使われている
「観音寺」の本堂で、金堂とも呼ばれる。
室町時代の建築 (1677修築) で国指定の重要文化財。
扁額には「観音堂」とある。
本尊は聖 (しょう) 観世音菩薩、真言は「おん あろりきゃ そわか」。
68番神恵院の本尊は阿弥陀如来。
<日本最初の観音霊場>は聖徳太子 (574-622) が建立したと伝えられる
真言宗中山寺派の大本山中山寺。
本尊は十一面観世音菩薩。安産の霊場として皇室、武家、庶民の信仰 を集めてきた。豊臣秀頼、明治天皇は祈願の賜物と言われる。阪急宝塚線の岡町に住んでいた子供の頃、家族で度々お参りしたものだ (阪急・中山駅)。
西国三十三所第24番札所 (なかやまさん) 。
かまど神のお札をもらいには清荒神 (こうじんさん) (宇多天皇勅願寺896) に 行った (阪急・清荒神駅) 。
真言三宝宗の大本山だ。
< プラウザは IE もしくは Firefox をお使いください。>
depuis 2001
銭形の砂絵「寛永通寶」は、将軍家光公から讃岐巡遣使を派遣するとの知らせを受けた
丸亀藩主が事前の領内巡視をした際 (1633) に、
地元の古老達が歓迎のため一夜で作り上げたものと伝えられている。
寛永通寶が創鋳されるのは1636年なので、永楽通寶等の中国銭だった可能性が高い。
慶長通寶 (1606) と元和通寶 (1617) はほとんど流通しなかった。
象ヶ鼻岩北側の銭形展望台より見ているので軸がずれている。
眼下一帯は琴弾公園。
前の海は燧灘 (ひうちなだ) 、島は伊吹島、砂浜は有明の浜。西を向いている。
depuis 2001
源義経 (1159-89) が源平の屋島の合戦の勝利 (1185) に感謝し、
平家追討を祈願した琴弾八幡宮 拝殿 (後ろに本殿) 。琴弾山の頂上に位置する。
源頼義 (988-1075) 、源 (八幡太郎) 義家 (1039-1106) 、源頼朝 (1147-99) も
祈願、奉納、寄進している。
瓦等の装飾には左三つ巴紋、賽銭箱には右三つ巴紋が・・
八幡宮の神紋には前者が多く使われている。丸琴は御朱印に使われている。
源(鎮西八郎)為朝 (1139-70) の正室 白縫が
夫を島流しにした仇と出くわすのはこの拝殿でだ。
滝沢馬琴の代表作「椿説弓張月」にある。
為朝は琉球に渡り、白縫との子が琉球王国初代の王 舜天となる。
源 (鎮西八郎) 為朝は源義家の曾孫にあたる。
頼義、義家、為朝、頼朝、義経、全て河内源氏だ。
depuis 2001
足利義政 (1436-90) が東山山荘 (東山殿) として造営したもの。
義満の北山殿 (金閣寺) (1397) に倣った。
金閣に対し銀閣と言われるが、銀箔を貼った歴史はない。
東山 (とうざん) 慈照寺 (銀閣寺) (1490) は
臨済宗相国寺派大本山である相国寺の境外塔頭 (金閣寺も)。
金閣、飛雲閣と共に京の3閣の一つ。
サミットに鳳凰が載るのは平等院 (鳳凰堂) と金閣と銀閣。
銀閣寺垣を通って庭園に入ったところ。中央に銀閣、手前に銀沙灘 (ぎんしゃだん) と向月台。
錦鏡池 (きんきょうち) は左側にあり、池の周りを回遊して銀閣の裏側に出る。
depuis 2001
京都駅前バスターミナルから系統1を使って銀閣寺へ行った。
5月15日は、祇園祭、時代祭りと共に京の3大祭りの一つである<葵祭り>の日で、ルート上に交通規制があって渋滞したが、祭りの行列に出くわすことはなかった。
平安神宮から白川通りを北上して、白川通り今出川で下車。
銀閣寺の錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式庭園の峠から望む吉田山 (神楽岡) の東斜面。右側にはうっすら金閣寺等のある北山が見える。
吉田山の西斜面には吉田神道の吉田神社、麓には京大のキャンパスがある。
境内には、左に銀閣、右の一番手前に東求堂が見え、この二つが創建当時からの建物で国宝。
depuis 2001
<外国人に人気の日本の観光スポット>第一位 (2014) に躍り出た伏見稲荷大社 (711) は稲荷神社の総本社だ。(広島平和記念資料館、厳島神社、金閣寺、東大寺・・・と続く)
50年ぶりに訪れたが、記憶とどうもしっくりこなかった。
建物が変わったわけでもないのに・・
京阪電車の伏見稲荷下車 (裏参道) ではなく、JR 奈良線の稲荷下車でアクセスした。JR 山科で下車し、京阪山科に乗り換えるつもりだったが、
京阪の駅員が「JR の方が近いですよ」と勧めてくれたからだ。
新表参道と裏参道の交差点にある御茶屋で<稲荷寿司 / お稲荷さん>を頂きながら、観光客の増加や裏参道の様子等を伺った。
写真は一の鳥居から正面の楼門で、豊臣秀吉による造営 (1589) 。びゃっこさん (白狐) は成就 (達成) の鍵と宝珠を銜えている。
depuis 2001
ストラヴィンスキーの噴水 Fontaine Stravinski (1982) は
<ヌーヴォー・レアリズム Nouveau Réalisme>の芸術家ジャン・ティンゲリー Jean Tinguely (1925-91)とニキ・ド・サンファル Niki de Saint Phalle (1930-2002) との共同作品。ジャン・ティンゲリーはダダイスムの影響を強く受け、ヌーヴォー・レアリズム運動創設のメンバーの一人 (1960) 。
鉄などの部分はティンゲリー、カラフルな造形は夫人であるサンファルの作品。
Igor Stravinsky (1882-1971) はディアギレフによるロシア・バレエ団を通じて名を上げた近代音楽家 。
ポンピドーセンターとストラヴィンスキー広場 Place Igor Stravinsky に時代の前衛的建築家 (レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャース) 、音楽家、彫刻家を集合させたもの。
手前側がポンピドーセンターで奥にサン・メリー教会 St-Merri (1515-1612) 。
この噴水ができた直後に訪れて、報告書に留めたことを覚えている。
イギリス、スペイン、西ドイツ、イタリア、スイス、フランス、ギリシャの7カ国を巡る17日間の旅程で、費用は80万円だった。行きはアンカレッジ経由の北回り、帰りはデリー、バンコック等経由の南回りだった。
<追加>
アメリカのストリートアーチスト:シェパードフェアリー Shepard Fairey (1970-) の壁画がポンピドーセンター脇のストラヴィンスキー広場 Place Igor Stravinsky に登場した。
The future is unwritten. Knowledge+Action=Power とある。
彼はパリの同時多発テロ事件 (2015) の犠牲者へのオマージュとしてマリアンヌ (自由・平等・友愛) のポスターを制作したことで知られる。 2019.08.20.
depuis 2001
サン・ルイ島とセーヌ左岸に架かるトゥールネル橋上流、高水敷に設けられた散策道から見た
トゥールネル橋の橋脚に設置された<パリの守護聖人聖ジュヌヴィエーヴ>。
パリの中心であるサン・ルイ島、シテ島から上流方向、
つまり外を向いていることによってパリを守護していることを表現している。
ポール・ランドウスキー Paul Landowski (1875-1961) による彫刻 (1928) 。
彼はリオ・デ・ジャネイロのコルコバード Corcovado の巨大キリスト像 (1922-31) の作者として世界に知られている (初めて見て、山上の像の足元に立った時は本当に驚いた) 。
***
右側の建物群はサン・ルイ島。
橋上にシテ島にあるノートルダム寺院の双塔と尖塔の頂部が見えている。
橋の下に見える水面がサン・ルイ島とシテ島を隔て、
セーヌ川の左派流と右派流を連絡している。
Tournelle は 12世紀に建設された<フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste>の四角い塔 (砦) の名。
城壁で囲まれたここより下流、現芸術橋付近までがパリ市内だった。
depuis 2001
エリゼ宮前、内務省横にあるギャルリー・プレジダンス Galerie de la Présidence 。
ビュッフェ Bernard Buffet (1928-99) 若かりし頃の作品<La table de cuisine (1950) >
キャンヴァスに油彩。
4年前には盗んだお祖母さんのシーツをキャンヴァス代わりに描いていたが、その2年後 (1948) には批評家賞を得て支援者にも恵まれた。
depuis 2001
キュビスムの版画家 graveur cubiste の草分け、ジャック・ヴィヨン Jacques Villon (1875-1963) はデュシャン兄弟の長兄ガストン Gaston Duchamp のペンネーム (1894以降) 。
<成功もしくはカード Une réussite ou Les Cartes (1903) >は美術学校へ行く以前の作品で、
ロートレックやドガの影響を強く受けていると言われる。
その後、モンマルトルからパリ郊外のピュトーに転居 (1906) 、洗濯船のピカソ、ブラックと一線を画して黄金分割 Section d’Or を自称するキュビスムのピュトー派 Puteaux Group のメンバーとなる (1910) 。
弟のマルセル・デュシャン Marcel Duchamp (1887-1968) は
ダダイスム Dadaïsme の先駆者となる。
色付きのエッチングとアクアチントによる作品で、
フランス国立図書館 Bibliothèque nationale de France の所蔵。
「フランス国立図書館」は 1368年にシャルル5世に よって創立された「王室文庫 Bibliothèque du Roi 」が起源。
depuis 2001
コクトーがアカデミー・フランセーズの会員になった年 (1955) に、ビュッフェ Bernard Buffet (1928-99) が献呈した肖像画 À Jean Cocteau 。
ミリィ=ラ=フォレ Milly-la-Forêt の ジャン・コクトーの家 (美術館) Maison de Jean Cocteau で観れる。
ビュッフェはコクトーの戯曲<人間の声 La Voix Humaine>を銅版画で表現したりもした (1957) 。
ビュッフェは 1974 にアカデミー・フランセーズの会員となった。
depuis 2001
シャガール Marc Chagall (1887-1985) が初めてパリに来て (1910) 間もなくの作品
<ロシアとロバとその他のものに À la Russie, aux ânes et aux autres (1911-12) >。
ロシア (現ベラルーシ) の故郷に思いを馳せて描いた代表作の一つ。
子供を生んだ雌牛と、乳絞りの農婦と、教会。シャガールの原風景なのだろう。
農婦の首が離れていることで彼の夢想 (幻想) であることが分かる。
原色の映えるアヴァンギャルド avant-garde な作品だ。
作者の寄贈により (1953) 国立近代美術館が所蔵。来日した(2010) 。
蜂の巣 La Ruche で製作、生活した。
depuis 2001
第1回印象派展 (1874) に出品して酷評に曝されたルノワールの<バレリーナ Danseuse>。
ワシントン・ナショナル・ギャラリー National Gallery of Art 所蔵。
20年ぶりにパリ (リュクサンブール美術館) でお目にかかった。
<ポール・デュラン-リュエル / 印象派の賭け マネ・モネ・ルノワール・・・>展 にて。
depuis 2001
リュクサンブール美術館で催された <ポール・デュラン-リュエル / 印象派の賭け マネ・モネ・ルノワール・・・>展 の目玉の一つ、
ルノワール Pierre-Augustê Renoir (1841-1919) の「ダンス3部作」。
左から<田舎のダンス Danse à la campagne (1883) >、<都会のダンス Dance à la ville (1883) >、<ブージヴァルのダンス Danse à Bougival (1882-83) >。
「ブージヴァルのダンス」がボストン美術館から里帰りして、
オルセー美術館の2点と並置された。
「田舎のダンス」の女性は<舟遊びをする人々の昼食(1881)>等にも登場する後のルノワール夫人、「都会のダンス」の女性はユトリロ Maurice Utrillo (1883-1955) の母親とされる。
衣装は木綿と絹で描き分けられている。
最初に描かれた作品「ブージヴァルのダンス Bal à Bougival」のカップルは都会のダンスと同じで、女性はユトリロの母シュザンヌ・ヴァラドン Suzanne Valadon (1865-1938) 。
印象派から古典主義への回帰を示す代表作で、リュエルの室内装飾用として描かれた。
depuis 2001
ルイ13世の王妃でルイ14世の生母 オーストリアのアンAnne d’Autriche (1601-66) の肖像画。
1620-25 に描かれ、多分ルイ13世の間に在ったが失われてしまったルーベンス Peter Paul Rubens (1577-1640) 作のオリジナルのコピーだと案内されている。
作者は不詳で、D’après Rubens とある。
ルーヴル美術館所蔵。
depuis 2001
Charlie Hebdo 事件 (2015.01.07.発生) 後の週刊誌 「L’EXPRESS」の表紙。
「私たちはフランス」、「私はシャルリー」とあって、
ドラクロワの<民衆を率いる自由の女神 (1830)>に倣って、フランス国旗を掲げたマリアンヌに銃の代わりにペンを持たせている。
マリアンヌは共和国の象徴。
被っているフリジア帽は自由の象徴。
ペンは表現の自由の象徴。
ちゃんと、d’après Delacroix と書き込んである。
追悼集会・大行進 (2015.01.11.) はラ・マルセイエーズの大合唱もあり、将にこんな雰囲気だった。
ル・コルビジェ広場の広告塔にて。
depuis 2001
オペラ広場からパリの古くからの幹線道路であるタンプル通りに向かう<9月4日通り Rue du Quatre Septembre>。ガンベッタが第3共和政の宣言をした日だ (1870.09.04.) 。
この道路はナポレオン3世とオスマンによるパリ改造計画の道路で、オペラ広場からナポレオン1世の Palais Brongniart (1807) があるヴィヴィエンヌ通りまで開通した (1864) 。
ルイ=ナポレオン・ボナパルトが第2共和政大統領選に勝利した日 (1848.12.10) を付けて
<12月10日通りRue du Dix-Décembre>と命名された。
第2共和政、第2帝政、第3共和政の歴史を思い起こさせる道路だ。
横断歩道のあるのがRue Vivienne、交差点の向こうはRue Réaumurで、タンプル通りまで。
depuis 2001
デューラー Albrecht Dürer (1471-1528) が友人からの情報を基に描いた犀 (木版画作品 1515) は<デューラーの犀>として有名。
<ベルニーニの象>とともに、ダリ Salvador Dali (1904-89) が触発された<デューラーの犀>を使った彫像<宇宙の犀 Rhinocéros Cosmique (1956) >。ブロンズ。
蜘蛛の足を除く犀の部分はそっくり<デューラーの犀>で、背中に実在しない角もそのまま付いている。
背に海栗 (うに) の殻をユニコーン風のオベリスクとして積み上げている。
ウニは処女性の喪失を象徴する。
フローベルの小説「聖アントワーヌの誘惑」にユニコーンが出てくる。
2011.08.20.
depuis 2001
砂漠で修業をした聖アントニウスは多くの画家達が採りあげたテーマの一つだが、
中でもサルヴァドール・ダリ Salvador Dali (1904-89) の<聖アントニウスの誘惑 La Tentation de saint Antoine (1946) >は著名だ。
象に乗っているのが様々な誘惑で、象をモチーフにしているのは、
二頭目の象に乗った黄金がベルニーニが象の台座を造形した (1667-69) <ローマのミネルバ広場のオベリスク>に触発されたからだとされている (写真右:Obélisque de la piazza della Minerva / wiki より借用) 。
各種誘惑を率いて凱旋しようとする馬にクロスを翳して立ち向かっているのが
聖アントニウスだ。 <ベルギー王立美術館>所蔵。
ベルニーニ Gian Lorenzo Bernini (1598-1680) による<ミネルバの象 Éléphant de la Minerve (1667-1669) >は<ベルニーニの象>と呼ばれる。
depuis 2001
<偉大な探検家の公園 Jardin des grands explorateurs
: Marco Polo et Cavelier de La Salle (1867) >の街燈。街頭の背後はマロニエの並木。
リュクサンブール公園側から天文台大通り、
突き当りのパリ天文台 Observatoire de Paris を見ている。
カブリエ・ド・ラ・サール René-Robert Cavelier de La Salle (1643-87) は5大湖からミシシッピー川流域を調査した探検家で、ミシシッピー流域をルイ14世王の土地を意味するルイジアナ Louisiane と命名した人物。
ミシシッピー中流の町、サン・ルイ(ルイ9世) を意味するセントルイスもそうだ。
複数の彫像と円柱 (列) が置かれているが、手前のそれはオペラ・ガルニエの屋上にある一対の金色の彫像、「ハーモニーとポエジー」の彫刻家 Charles Gumery (1827-81) の作品で<夜 La Nuit>。足元に首輪を付けた犬がいて左手で紐先を掴んでいる。
depuis 2001
ナポレオン1世がサン・ドニの元王室の修道院をレジオン・ドヌールの教育の家 (女子高) に改修した (1811) 。その広大な敷地の一部がレジオン・ドヌール公園 Parc de la Légion d’Honneur として開放されている。
鐘楼の見える建物がレジオン・ドヌールの教育の家、
その後方に見える尖塔と大屋根がサン・ドニ大聖堂だ。
メトロ13号線 Basilique de Saint-Denis 若しくは Saint-Denis-Porte de Paris 下車。
2010.08.13.
depuis 2001
スコットランド女王 (在位1542-67)
マリー・スチュアート Marie Stuart が幼少期を過したアンボワーズ城。
スコットランドを逃れて (1548) 、
ギーズ家出身の母の伝手でアンリ2世 (在位1547-59) の下で育った。
王太子 Dauphin フランソワ2世と結婚 (1558) 後、フランス王妃 (1559-60) となったが、
王の死去でスコットランドに戻った (1561) 。
イングランドの王位継承権を巡る抗争が背景にあった。
アンリ2世の愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエ Diane de Poitiers 、王妃カトリーヌ・メディシスの教育を受けながら育った。先代のフランソワ1世の庇護の下、晩年を過ごしたレオナルド・ダ・ヴィンチの居所、 クロ・リュセ城 Château du Clos Lucé はこの奥に隣接する。
ジャンヌ・ダルクのシャルル7世の孫、
シャルル8世 (在位1483-98) はこの城で生まれ、亡くなった。
depuis 2001
ルイ14世の王笏 Septre と宝珠 Orbe は既に取り上げた。
ここでは、ナポレオン1世の皇帝笏を持つ彫像を紹介する。
フランソワ・ジェラール Antoine-François Gérard (1760-1843) の作品、<勝利を収めたフランス La France victorieuse (1809)>。
頭部に鷲の頭を付けた片手剣/グラディウス Gladius を持つ右手で鷲を彫り込んだ盾(見えない)、兜/ガレア Galea を抑え、左手でローマ皇帝の持った笏 Sceptrum Augusti を支え、ローマ皇帝風の兜、矢筒、衣装を纏った有翼の女神像だ。
皮ひものサンダル/カリガ Caligae を履いている。
皇帝ナポレオン1世の鷲はローマ皇帝のそれと異なり頭が右を向いている。笏は象牙、鷲は金だったらしい。
カルーゼルの凱旋門の正面右側に置かれている。
depuis 2001
サンテティスム Synthétisme 、サンボリスム Symbolisme の創設者であり、
ゴーギャン Paul Gauguin (1848-1903) のポン=タヴァン派の画家だったこともある
<エミール·ベルナール Émile Bernard (1868-1941)>。
印象派後のサンテティスムをゴーギャンと共に進化させたポン=タヴァン Pont-Aven 時代に描いた自画像 (1888) で、ゴッホ Vincent van Gogh (1853-90) に捧げたもの。
画面中央にゴーギャンの肖像画を配し、
右肩に「仲間 (親友) のフィンセントに捧ぐ」と書いて署名している。
逆に、<ベルナールの肖像画を背景にゴーギャンが描いた自画像 (1888) >も存在し、
<ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ (1888) >もある。
3人がポン=タヴァンに滞在していたのだろう。
ベルナールは詩人でもあって、
ギヨーム・アポリネール Guillaume Apollinaire (1880-1918) とも親交があった。
これら3点の絵はアムステルダムの<ゴッホ美術館 Musée Van Gogh >にある。
depuis 2001
パリで最初の常設劇団<オテル・ド・ブルゴーニュ座 (1548-1680) >の在った所。
ルイ13世の認可 (1629) を受けて以降王立劇場となる。
ルイ14世の命により、モリエールの流れを汲むゲネゴー座と合併しコメディ・フランセーズとなって (1680) オテル・ド・ブルゴーニュ Hôtel de Bourgogne は使われなくなった。
ブルゴーニュ公、通称ジャン・ソン・ペアー (恐れを知らぬジャン) Jean sans Peur (1371-1419) が元々<フィリップ・オーギュストの城壁>にもたれて建築されていた (13世紀末) オテル・ド・ブルゴーニュ を強化するために Tour (要塞の塔) を建設した (1411) 。
その後、オテル・ド・ブルゴーニュ座として長きにわたって使用されたが、
エティエンヌ・マルセル通りの拡幅 (1868) によって残存していた屋敷はこの塔 Tour Jean-sans-Peur を除いて取り壊された。
depuis 2001
<コニャック=ジェイ 美術館 Musée Cognacq-Jay >はマレLe Marais のドノン館 Hôtel de Donon に移されるまで (1988) この建物にあった (1929創設) 。
カプシーヌ大通り Boulevard des Capucines に面し、右に隣接してサマリテーヌ百貨店の宝石店があった。アール・ヌーヴォーの建築家 Frantz Jourdain (1847-1935) の建築で、ポン・ヌフの建物と同じ外観で今も残っている。
コレクションがパリ市に寄贈されて開設した市立美術館のため、パリの市章が付けられた。
<揺蕩えども沈まず>、左にレジオン・ドヌール勲章、右に第一次大戦のクロス Croix de guerre 1914-1918 を配し、帆は一枚。第二次大戦、解放のクロス Croix de la Libération が付いていないのは当然。
depuis 2001
ローマ・ガリア時代のパリの南北軸はシテ島から南へサン・ジャック通り Rue Saint-Jacques 、北へサン・マルタン通り Rue saint-Martin の直線道路だった。
オスマン計画によりシャンジュ橋とサン・ミッシェル橋を使ったサン・ミッシェル大通りとセバストポール大通りが新たに整備され現在の南北軸となっている。
写真はサン・ジャックの塔公園の東南端、ヴィクトワール大通り (左がオテル・ド・ヴィル正面) との交差点から南北軸の南を見たもの。
ノートル・ダム橋 (グラン・ポン) から一直線のサン・ジャック通りが見えている。橋を越えた左にオテル・デュー Hôtel-Dieu 、右にパリ警視庁 Préfecture de Police (シテ島) 、プチ・ポン (見えないが) を越えてソルボンヌの天文台 Observatoire de la Sorbonne が見える。
フィリップ・オウギュストの城壁は写真の奥辺りを横切っていた (左がパンテオン) 。
depuis 2001
セーヌ右派流に架かるアルコル橋 Pont d’Arcole から下流に架かるノートル・ダム橋 Pont Notre-Dame とシテ島 Île de la Cité を見た写真。2012.08.16.
正面がドームのある商事裁判所で、その奥 (下流) が時計の塔 Tour de l’Horloge のある元シテ宮:現コンシェルジュリーとサント・シャペルの尖塔。
左端にオテル·デュー·ド·パリ Hôtel-Dieu de Paris 。
商事裁判所の宮殿 Palais du tribunal de commerce はオスマン計画の一環として、ナポレオン3世肝いりでニコラ·バイイ Antoine-Nicolas Bailly (1810-92) に建築させたもの (1860-65) 。イタリア北部のブレシアの町役場を参考にするよう命じ、その出来栄えを絶賛したという。
見え難いが、ドームの窓の上にナポレオン3世の N とパリの市章がある。
正面はセーヌ川に面す。
余談だが、ノートル・ダム橋の旧橋部分 (1853) に見える街燈は独特。
ノートル・ダム橋の右 (北) はサン・マルタン通り、左はプチ・ポン (橋) からサン・ジャック通り、ローマ時代からのパリの南北軸、カルド Cardo Maximus だ。
橋も最古でグラン・ポンと呼ばれていた。
depuis 2001
オペラ座/オペラ・ガルニエの緞帳上部である。
真ん中に<太陽王ルイ14世のエンブレム emblème >その横に<1669年 Anno 1669>とある。
1669年はルイ14世が (王立) 音楽院 Académie (royale) de musique (パリオペラ座) の設立を許可した年だ。「・・アカデミー設立ルイ14世」とのラテン語の記載がある。
緞帳の本体は映像用のスクリーンのために開かれていて見えていない。
シャガールの天井画の一部が見えている。
<再掲>
ガルニエは豪華なつくりで有名ですが劇場の天井画も秀逸です。シャガールの作品です。
depuis 2001
グラン・パレ Palais Grand の裏 (西) 側、フランクリン・ルーズベルト大通りに面した 発見の宮殿 Palais de la Découverte 。
<科学博物館 Musée et Centre culturel scientifique parisien >が入っている建物だ。
「現代生活に適用される芸術と技術」をテーマにしたパリ万国博覧会 (1937) において、ジャン・ぺランによって造られた (1937) 博物館が、万博後 (1938) 拡張されて科学博物館となった。
Victor Peter (1840-1918)と Alexandre Falguière (1831-1900) による左右の騎馬像 (1900) 等は「1900 パリ万博」で建設されたグラン・パレ Grand Palais 以来のもの。
depuis 2001
ガリアのシンボルとして使われて以来の歴史が古い<ガリアの雄鶏 Coq gaulois>は事実上フランスの国鳥。右の Gaulois Dorée が最も近い品種だとされている。
ルーブル宮殿のクール・キャリー Cour Carrée エスト翼 Aile Est のペディメント (破風) に、円形のウロボロスに囲まれたガリアの雄鶏を見ることができる。
<ウロボロス Ouroboros>は尻尾を飲み込む蛇で、死と再生/不老不死を象徴する。
オリジナルはギョーム・クストーの息子 Guillaume II Coustou (1716-77) の作品 (1759) だが、王の紋章で飾られた地球部分をフランス革命後に置き換えたものだ。
輝く太陽の光は残っている。
王の紋章の多くがガリアの雄鶏に置き換えられたと言われるが、更に、皇帝ナポレオン1世は弱々しい雄鶏の多くを強い鷲に置き換えたという。残った希少例と思われる。
両側を有翼のゲニウス Génie がサポートしている。
バスティーユ、7月革命記念柱の<自由のゲニウス Génie de la Liberté>が有名。
パッサージュを通して見えているのはパリ1区区役所と鐘楼。
depuis 2001
パリ植物園にあるパリ (世界) 最古の全金属構造物、<ブュフォンの展望台 Gloriette de Buffon>。サミットに風見鶏を乗せた天球儀を置き、8本の円柱と円形格子構造がそれらを支持している。
ヴェニケ Edme Verniquet (1727-1804) による建築 (1788) で、
鋼構造のエッフェル Gustave Eiffel (1832-1923) に100年先駆けたものだ。
ブュフォン Georges-Louis Leclerc de Buffon (1707-88) は
植物園長も務めた博物学者として有名だが、いわゆる万能人物で鉄鋼所も持っていた。
材料はそこで調達された。設計も恐らく彼だろう。
植物園内で最も標高が高く、コイポーの丘 Butte Coypeau 等と呼ばれ、長らく風車が置かれてきた (1303-1640) 。丘は展望台まで迷路状になっている。
<ブュフォンの坐像>が <国立自然史博物館の進化のグランドギャラリー Grande Galerie de l’Évolution> 前に置かれている。Jean Carlus (1852-1930) の作品(1908)。
depuis 2001
サン・シュルピス教会 Église Saint-Sulpice 前の噴水/ヴィスコンティ Louis Visconti (1791-1853) 作の<サン・シュルピスの泉 Fontaine Saint-Sulpice (1847) >のパリ市章。
4人の司教の彫像があるので「4司教の泉 Fontaine des quatre évêques 」ともいう。
左の司教が王権神授説で有名なモーの司教 ボシュエ Jacques-Bénigne Bossuet(1627-1704)で、右はニームのフレッチャー司教。
左の建物がサン・シュルピス教会。ダ・ヴィンチ・コード以来、知らない人はいない。
冬なので噴水は止まっている。2015.01.16.
depuis 2001
アレクサンドル3世橋の左岸/リヴ・ゴーシュ Rive Gauche のセーヌ川下流側橋柱である。
座像は<ルイ14世治下のフランス La France sous Louis XIV >という
クレマンシュタイナー Clément Steiner (1853-99) による彫像 (1900) だ。
右手に<王・君主・王権を象徴する笏/セプター Sceptre (先端にフル―ル・ド・リスが付いている) >を持ち、左手の平に<月桂冠を右手でかざした勝利の女神ヴィクトリー Victoire の宝珠 /オーブ Orbe >を置いている。
アポロンに扮した時の帽子を乗せ、王冠付きの王の紋章の入った盾を右脇に置いている。
「セプター」はレガリアの一種で、先端に<正義の手 Main de justice >が使われることもある。
橋柱の頂部には、ローラン・マフケースト Laurent Marqueste (1848-1920) の作品<戦勝の伝達者と天馬・ペガサス Pegase tenu par la Renommée de la Guerre >(1900) 。
なお、左岸上流側には<ルネサンス王フランソワ1世の像 La France de la Renaissance >が置かれている。像の上の王の紋章には彼のエンブレムであるサンショウウオも見れる。
depuis 2001
アンリ4世がポン・ヌフ (1607) と一体的に整備を図ったシテ島の西端部分の広場。
果樹園だった3角形の土地を2階建て (日本では3階建て) のメゾンで取り囲み中庭を
ドフィーヌ広場 Place Dauphine と名付けた。
当時の面影はポン・ヌフに面した出入り口左右一対のパヴィリオンで窺える (写真奥右端) 。
クロード・シャスティヨンClaude Chastillon (1559-1616) が
ヴォ―ジュ (ロワイヤル) 広場に続いて第2ロワイヤル広場として建設した (1611) 。
ド―フィン Dauphin は王太子 (初代は後のシャルル5世) のことで、<ルイ13世 (1601生まれ) >を指す。ポン・ヌフからマザリーヌ通りとビュシ通りの交差点まで同時に施工された左岸の新道路の名もドフィーヌ通りだ。
depuis 2001
アンリ2世の事故死 (1559) により後ろ盾を失った愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエ Diane de Poitiers (1500-66) はアンリ2世からの贈物 (1547) 、シュノンソー城 Château de Chenonceau をカトリーヌ・ド・メディシスに奪われる。その代償がカトリーヌ・ド・メディシス所有 (1550) のショーモン城 Château de Chaumont だった。
写真はロワール川右岸から望んだ ショーモン城 で、下流左岸 (右側対岸) の アンボワーズ城 Château d’Amboise と右岸上流の ブロア城 Château de Blois とのほぼ中間にある。
シュノンソー城 は写真のショーモン城の奥、支流のシェール川 Le cher にあり、略アンボワーズ城までの距離。
depuis 2001
<フィリップ・オーギュストの城壁 Enceinte de Philippe Auguste> が築かれた (1190-1209) 時、サン・ドニ門 Porte Saint-Denis はこの場所に設けられた。
パリからサン・ドニ大聖堂に向かう王の道、サン・ドニ通り Rue Saint-Denis はローマ時代からの古い道で、ポントワーズを経てルーアン (カエサルの道) に接続していた。
これ以前は更にパリ寄り (左) 、
アンリ4世が暴漢に襲われて亡くなった鉄細工通りとの交差点にあった。
写真の左直ぐ熊通り Rue aux Ours とあるのは (現) エティエンヌ・マルセル通り Rue Etienne Marcell 。
シャルル5世 (1330-80 在位 1360-80) によってさらに北側 (右) 、(現) サン・ドニ門まで<シャルル5世の城壁>が拡大されて取り壊された。
エティエンヌ・マルセル (1315-58) はジャン王 Jean II le Bon 治下 (王太子は後のシャルル5世で、56から摂政) の初代パリ市長 (1354-58) 。百年戦争により王権が弱体化していた。
ここが 1区と 2区の境界だ。
depuis 2001
ルネサンス王、フランソワ1世の招きで、
レオナルド・ダ・ヴィンチが晩年の3年間を過ごしたクロ・リュセ城。
居室兼寝室だったレオナルド・ダ・ヴィンチの間 Chambre de Léonard de Vinci のベッド。
彼はこのベッドで亡くなった (le 2 mai 1519) 。
フランソワ1世に抱かれて (庇護の下での寓意) 亡くなったという伝説があり、これをテーマとしたアングル Jean-Auguste-Dominique Ingres (1780-1867) による<レオナルド・ダ・ヴィンチの死 Mort de Léonard de Vinci (1818) >(プチ・パレ美術館所蔵) 等がある。
左に掛けられた絵がそれだ。
ロバでアルプス越えした3枚の名画、<モナリザ La Joconde (1503-06)>、<聖アンナと聖母子 La Vierge, l’Enfant Jésus et sainte Anne>、<洗礼者ヨハネ Saint Jean-Baptiste>の内
モナリザを除く2枚はクロ・リュセ城で完成された。何れもルーブル美術館所蔵。
クロ・リュセ城 Château du Clos Lucé (1500) はアンボワーズ城 Château d’Amboise と繋がっていて、部屋からの城の眺めがお気に入りだったという。
depuis 2001
後に、<オルレアンの乙女 Pucelle d’Orléans> と愛称されることになる
ジャンヌ・ダルク Jeanne d’Arc (1412-31) はここブロア城からイングランド軍に包囲されていた<オルレアンの解放>に出立した (1429.04.29. オルレアンに到着、05.08.開放) 。
ブロア城の礼拝堂において、ランスの大司教ルノー・シャルトル Renault de Chartres による祝福を受けた。約3か月後、ジャンヌ・ダルクの下、ランス大聖堂でシャルル7世の戴冠 (1429.07.17.) をした人物である。
ブロアの古い要塞跡であるフォアの塔 Tour de Foix (ブロア城の南西端にある円筒状の塔) で解放表明をしたと伝えられている。
左のゴシックの尖塔はサン・ロメ修道院 Abbaye Saint-Laumer 。
手前はロワール川 La Loire 、コンクリートのパラペットで護られている。
河岸への日常進入口として途切れている部分には、洪水時にゲートを挿入する。
崖上の要塞ブロア城は写真右半分で、入口は奥。
depuis 2001
パリの街路樹 les arbres des rues à Paris としてはプラタナス、マロニエ、シナノキ等が目につくが、写真はパリ市の案内板にある9種の街路樹。
パリのランドマークの一つでネオゴシックの2つの尖塔で分かりやすい、サント・クロチルド聖堂 Basilique Sainte-Clotilde (1857) 前のサミュエル=ルソー公園 Square Samuel-Rousseau (1857) で見かけたもの。
Sophora du Japon エンジュ、Tilleul argenté シナノキトメントーサ、Ailante glanduleux ニワウルシ、Marronnier rouge、Marronnier blanc、Tulipier de Virginie ユリノキ、Cédrela de Cine チャンチン、Platane commun、Chêne fastigié オーク の9種が紹介されている。
サミュエル=ルソー公園は、ヴァンセンヌやブーローニュの森を整備したアルファン Jean-Charles Alphand (1817-91) がパリ改造の一環で設置した小公園で聖堂と一体で建設された。
depuis 2001
ロケットの泉 Fontaine de la Roquette (1846 MDCCCXLVI) のパリ市章 Blason de Paris 。
バスティーユ広場を出て、古代ローマ時代からの古い道フォーブール・サン=タントワーヌ通りから分かれて間もなくのロケット通り (レオン・ブリュム広場を経てペール=ラシェーズ墓地に至る) にある泉。
ロケット Roquette とはルッコラのこと。この辺りは一面ルッコラで覆われていたのではなかろうか? (1672頃)
市章はその左右を一対のイルカと花綱飾りで囲まれている。
パリ市の飲料水供給所 として設置されたもので、水源はウルク川/ウルク運河 Canal de l’Ourc から分岐されたサン・マルタン運河 (1825) 。
depuis 2001
マドレーヌ寺院 La Madeleine / Église de la Madeleine 入口銅製扉の浅浮彫の一つ。
モーゼの十戒の一つ<あなたは、姦淫してはならない。>、Henry de Triqueti (1803-74) の作品 (1837) で、<あなたは隣人の家を欲しがってはならない。>と向き合っている。
マドレーヌ寺院は正式には、聖マグダラのマリア寺院 Église Saint Marie Madeleine というローマカトリック教会だ。
「罪深い女」と言えばマグダラのマリアを指し、「姦淫の女」ともされてきた。
depuis 2001
ガルニエ宮/オペラ・ガルニエ/オペラ座の庭に置かれた、
オペラ座 (1861-74) の建築家<シャルル・ガルニエの顕彰碑>に見られるパリ市章。
オペラ座は第2帝政下 (1850-70) でのオスマンによるパリ改造計画の目玉の一つだが、その完成を見ることなくナポレオン3世は普仏戦争に敗れて退位、オスマンも職を辞した (1870) 。
サミットに「シャルル・ガルニエの胸像 Buste de Charles Garnier 」 が置かれ、中央に「パリ市章」、ボトムには「オペラ座の設計図」が示されている。
カポー Jean-Baptiste Carpeaux (1827-75) によるこの胸像のオリジナル (1868-69) は
<オルセー美術館 Musée d’Orsay>にある。
depuis 2001
ルイ14世がシュノンソーを訪れた時に (1650) 、
城主だった (1624から) 叔父にあたるヴァンドーム公爵 César de Bourbon-Vendôme (1594-1665) に贈る約束をしたとされるルイ14世の肖像画である。
リゴー Hyacinthe Rigaud (1659-1743) の作品で、衣装等は異なるが、肖像はルーブル美術館 (1701) ・ヴェルサイユ宮殿 (1702) のものと同じに見える。
豪華な額縁はルイ14世様式のバロック装飾意匠の創造者の一人、ルポートル Jean Lepautre (1618-82) の作品。
サミットに月桂樹で囲まれた王の紋章、<フル―ル・ド・リス Trois fleurs de lys>と<トランペットを吹くルノメ/名声 La Renommée の寓意像>を置き、ペルタ下のボトムに鷲とライオンの頭部を絡ませ、両サイドからライオンの足を覗かせている。
後者は、勇気と大胆、知識を象徴し、また、王家を象徴するとされた<グリフォン Griffon>を具現したものと思われる。
右手にフル―ル・ド・リスで飾られた杖<王・君主・王権を象徴する笏/セプター Sceptre >を持っている。
depuis 2001
シュノンソー城の建設はフランソワ1世の時代に始まった (1513) 。
ルイ14世の間 (1650 に滞在した。) には
城主だった叔父のヴァンドーム公に後に贈る約束をしたとされるリゴー Hyacinthe Rigaud (1659-1743) 作のルイ14世像 (写真の左に額縁) 等が飾られている。
部屋に据えられたルネサンス様式の暖炉には
<サラマンダー Salamandre とアーミンHermine >が刻まれている。
サラマンダー (サンショウウオ/火中に座って水を噴く) は
フランソワ1世のエンブレムであり、アーミン (オコジョ・シロテン/毛皮模様) はブルターニュ公国 (939-1547) のエンブレムだ。
また、暖炉左右の側面には、<フランス王国のフルール・ドリス>と<ブルターニュ公国のアーミン>が交互にあしらわれている。
フランソワ1世の妻、クロード・ド・フランス Claude de France (1499-1524) はルイ12世の娘でブルターニュ (女) 公/ブルターニュ侯爵夫人だった。
二人は又従兄妹の関係。アンリ2世の母。
ルイ12世はエンブレムにヤマアラシを使用した。
depuis 2001
高級娼婦/クルチザンヌ courtisane の横目で忘れられない
<ダイヤのエースを持ついかさま師 Le Tricheur à l’as de carreau ( vers 1635)>。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール Georges de La Tour (1593-1652) 作のこの作品は、
ルーブル美術館に寄贈した (1972) Paul Landly 氏が、
サン・ルイ島の古美術商から購入した(1926) ものという。
左の3人はグルのいかさま師達で、右端の金持ちそうな青年がカモ。
ワインを勧められ、クルチザンヌに気をとられている間にエースを隠し持っている左端のいかさま師に身ぐるみ剥がれてしまうというわけだ。
当時 3大誘惑とされた<賭博 le jue、飲酒 le vin、淫蕩 la luxure>を戒める道徳的意味を持つテーマとしてカラヴァッジョをはじめ多くの画家が採りあげたものの一つだが、
<ガブリエル·デストレと彼女の妹ヴィラールの公爵夫人の推定肖像>と共に
キュビストやシュールレアリストに大きな刺激を与えた絵画とされる。
参考
Portrait présumé de Gabrielle d’Estrées et de sa soeur la duchesse de Villars / Musée du Louvre
depuis 2001
<人間は考える葦である>
哲学者ブレーズ・パスカル Blaise Pascal (1623-1662) の有名な言葉だ。
彼は数学者、物理学者でもあって大気圧の単位ヘクトパスカルとしても名を残している。
大気圧の高さによる差をサン・ジャックの塔 Tour Saint Jaques を使って実験した。
塔の下に彼の石像が置かれているのはそのメモリーとしてだ。
ジュール・キャヴリエ Jules Cavelier (1814-94) の作品 (1854) 。
<ヴィクトル・ユゴー美術館 Muséee Victor Hugo >で見れるテーブル。
既成のテーブルにユゴーがインク壺と4名自筆のメモ板を加えてデザインしたもので、チャリティー・オークションに出した (1860) ものの買い手が付かずに手元に残ったらしい。
Victor Hugo (1802-85)、Alexandre Dumas (1802-1870) 、George Sand (1804-76) 、Alphonse de Lamartine (1790-1869) 、4名の名が貼り付けられている。
ユゴーが借りていたこのメゾンをパリ市が買い取って美術館にするために多額の寄付をした小説家、劇作家 ポール・モーリス Paul Meurice (1818-1905) の仲間・友人達だ。
* * *
今治の<(株) 魚貞蒲鉾店>の簀巻きなどをいただきました。
簀巻きはこれに限ります。
depuis 2001
アンリ2世の愛妾 (1538-66) で、王妃カトリーヌ・ド・メディチ Catherine de Médicis (1519-89 : 在位 1547-59) との確執で知られる、ディアーヌ・ド・ポワチエ Diane de Poitiers (1500-66) がアンリ2世から貰った (1547) シュノンソー城 Château de Chenonceau 。
モノグラムが HC なのか HD なのかで話題となるディアーヌ・ド・ポワチエだ。
フランソワ1世の財務担当 Thomas Bohier の妻 Katherine Briçonnet が設計・デザイン等を実質指揮して建設を開始 (1513-21) 、フィリベール・デローム Philibert Delorme (1510-70) がルネサンス様式で完成させた。
アンリ2世が亡くなる (1559) と、カトリーヌ・ド・メディチは直ちに Château de Chaumont との交換によってディアーヌ・ド・ポワチエから念願のシュノンソー城を取り上げる。
その後、城を買い取った (1733) クロード・デュパンの妻で 、 マダム・デュパン Madame Dupin と呼ばれたルイーズ・デュパン (1706-99) が啓蒙思想家達のサロンとして提供した舞台もシュノンソー城だ。
マダム・デュパンはジョルジュ・サンド Aurore Dupin (1804-76) の曾祖母である。
城の建つシェール川 Le cher はロワール川 La Loire の左支流で
トゥールTours の町を過ぎて合流する。
depuis 2001
Jean-Louis Henri Orry (1703-51) がヴァンセンヌ城内に窯を設立し (1738) 、死後、ポンパドール夫人の強い意向によってセーヴルに移される (1756) まで城内にあった。
メトロ1号線、シャトー・ド・ヴァンセンヌ駅に展示されているのはヴァンセンヌ窯からの出土品 Vincennes porcelain で、シャンティーイ窯の軟質磁器製作技術を発展させたもの。
王の青 Blue de Roi 、景徳鎮の青がマイセンでもコペンハーゲンでも目標だった。
カオリンがリモージュ郊外で発見されるまで (1768) 、カオリンを含まない軟質磁器の改良に注力したことによって、豪華なロココ調のセーヴル焼として開花することになる。
Vincennes porcelain / Château de Vincennes
depuis 2001
ヴァンドーム広場の現モニュメントであるコロン Colonne は工事中だが、このナポレオンのアウステルリッツでの戦勝記念柱が置かれる前にはルイ14世の騎馬像が置かれていた (1699-1792) 。広場の名はルイ大王広場 Place Louis-le-Grand と呼ばれた。
フランソワ・ジラルドン François Girardon (1628-1715) 作の騎馬像は革命によって破壊されたが、そのミニチュア Louis XIV が<ルーブル美術館>にある。
王室政府が取得して (1784) ルーヴルのアンティケの間に保管していたものだ。
* * *
義理チョコは<La Maison du Chocolat>と<Bvlgari / il cioccolato>でした。
Mariage で美味しく頂戴しました。有難う。
depuis 2001
ショパンの肖像画 Portrait de CHOPIN として有名な
ドラクロワ Eugène Delacroix (1798-1863) の作品。
ショパンとジョルジュ・サンドが蜜月だった頃 ( Vers 1838) の作品で、ピアノに向かっているショパンとその左手で編み物をするサンドを描いたもの。
サンドの部分はコペンハーゲンの Ordrupgaard Museum にあるらしいが見たことはない。
破局後もドラクロワの手元にあったが、死後切り取られて、作曲家 Antoine Marmontel (1816-1898) の息子で自身も作曲家でありコレクターでもあったアントニン・マルモンテル Antonin Marmontel (1850-1907) が買い取り、<ルーブル美術館>に寄贈した (1908) 。